月の君
月を見上げれば、誰もがそれを美しいと思う
しかし、彼の人を見知ってしまった私は
彼の人こそ美しいと思う
月の光を留めた雫を集めて神としたような姿は
見ているだけで心乱され…狂いそうになる……
「……三日月?」
「…ああ、面影か」
本丸の縁側に、一人静かに彼が座しているのを見て、面影は微かに眉を顰めた。
今の刻限は…どの辺りだ?
こんな時間に、一人で…?
そう思ったところで、『こんな時間』に自分もまたこうして一人で起きだしている事実に思い至り、ささやかなな苦笑を漏らす。
「どうした?」
「いや……どうした?と聞くつもりだったのだが…お互い様だと思っただけだ」
「ん?………ああ、確かにそうだな」
面影が言わんとした事を察して、三日月もふふふと笑う。
「で、お前も眠れなかったのか?」
「…そう、なのかな。よく分からない」
「ふむ……」
刻限は、正しくは分からないが、おそらくは子の刻は回っている頃だろう。
既に、他の刀剣男士達は全て寝入っているのか、本丸の中はしんと静まり返っている。
(静かだ………何故、起きだしてしまったのか…)
自分がどうして起きてしまったのか、面影には全く思い当たる節はなかった。
いつもの様に一日を過ごし、特に変わった事もなかった…筈。
何かの音に起きたという訳でもないのに…何故か前触れもなく目が覚めて……此処に足が向いてしまった。
「………そんな所に立っていないで、座ったらどうだ?」
「あ…」
縁側に所在無さげに立っていた面影に自分の隣を勧めながら三日月が笑う。
手元に灯りもない宵闇の中なのに、互いの表情がはっきりと見えるのは…天に輝く月の光が彼らを照らしてくれているからだった。
勧められた面影は、改めて相手の姿を見て座って良いものか真剣に悩んだ。
座れと促した男は軽装の紺の浴衣を纏っており、いつもの狩衣風の装束とはまるで印象が異なる。
いや、美しいという端的な感想は変わらず心に浮かぶのだが、その趣があまりにも異なるのだ。
狩衣はやはり戦闘時の出で立ちでもある為か、何処か近寄りがたい雰囲気が漂っているのだが、今の軽装はあまりにも無防備だ。
しかし、それが却ってこちらの心を波立たせてしまう。
あまりにも細く無防備なその姿は、こちらが近づいたらそのまま掻き消えてしまうのではないか?
そう、正に月の光が見せる幻の様に……
「その…邪魔ではないか?」
まさか、近づいたら貴方が幻の様に消えそうだ、などと言う訳にもいかないので、そんな問いを投げてしまった面影に、三日月はいやいやと微笑みながら首を横に振った。
「まさか、寧ろ一人で退屈していたところだ。すぐに寝るのでなければこのじじいの相手をしてほしい」
「………」
そこまで言われては断る事も出来ず、面影はそろりと静かに相手の側に歩み寄ると、ゆっくりと縁側に足を下ろす形で座った。
二人の間にもう一人が悠に入れる距離を空けて。
「……似合うな」
「え?」
「お前の浴衣だ。やはりお前には、藤の色が似合う」
「ああ……」
唐突に褒められた面影が、今の自分の姿を見て納得する。
つい先日、自身にも仕立てられた軽装…浴衣だ。
淡い藤の古典柄の浴衣と献上柄の綿角帯…控えめな色使いが寧ろ上品さを醸し出し、彼の人となりをも映している様だ。
「やはり…とは?」
「ちょっとだけ、じじいも主に進言しただけだ。お前にはその色が似合いそうだとな」
は、と面影の瞳が少しだけ見開かれる。
ではこの衣装は…彼の意向も反映されているのか…何となく、それを聞くと面映ゆい。
「…三日月、お前は自分の事をじじいと言うが……その、まるで見た目が違うから少々戸惑うな」
「はは、そうか? 若く見えるなら嬉しいことだ」
若くにしか見えないのだが…と突っ込もうとして面影は止めた。
どうもこの齢千年を超える付喪神は、周りの常識とは少々ずれた考え方をするところがある。
長い年月を重ねて行けば、独自の価値観が磨かれていくのかもしれないが……彼の本来の性格のせいなのかよく分からないところだ。
「確かに若くも見えるが……」
それ以上に、美しいと思う、と心で呟く。
『強襲調査』の過程の中でこの本丸に合流を果たし、初めてここの第一部隊の隊長である彼に会った時は、密かに吃驚していたものだ。
こんなに美しい刀剣男士がこの世にいるのかと。
泰然としていながらその洞察力は群を抜いており、刀を抜いたら一騎当千の働きぶり。
しかし、その力を誇るでもなく笠に着るでもなく、只、飄々と好きな歌を目を閉じて聞いていたり、のんびりと辺りを散歩したり……一言で言えば底が知れない。
成程、これだけの器量を持っているなら皆が第一部隊の隊長として認めているのも当然だ。
部外者の自分は、そんな本丸の様子を外から眺めつつ、必要に応じて助力を行うつもりだったのだが…何故か、この男は自分にやたらと構いたがった。
他の刀剣男士の話では、自他共に認める『世話をされるのが好き』なじじいであった筈なのだが…?
まぁ、世話をされるのが好きな世話焼き、という事もあるのだろうが……それも彼の不思議な一面だった。
「若くも見えるが……何だ?」
面白がっているのか、何かを企んでいる様な笑みを浮かべて、向こうはこちらを覗き込むように見ながら先を促した。
「……つい、お前を頼りにし過ぎていないか、不安になる」
「ほぉ?」
まさか本人に堂々と美しいと言える訳もなく、面影は少しだけ本音を隠しながらも、気にしていた気持ちを吐露した。
「三日月は…物事を見通す力も敵を退けるそれも本当に凄い……この本丸の刀剣男士達の要になっているのも頷ける話だ」
「そこまで褒められると少々照れ臭いが……お前の能力もなかなかのものだと思うぞ?」
「そんな事は……」
「そう過剰に謙遜するのがいかん。面影、お前も立派な刀剣男士だ……胸を張るといい」
「…………三日月」
あくまで優しく、叱るでもなく、訥々と道を示してくれる相手に、面影は暫く沈黙していたが、やがてひそりと重い口を開いた。
「………私は、まだ子供なのか?」
「なに?」
「此処で皆と住むようになって、明らかに感じる……私は、何も知らないのだと………」
左手を掲げ、その掌を見つめ、若者は苦痛を感じている様に眉を寄せた。
「皆が何気なく行っていること…その一つ一つにも意味があるのに、私は何も知らなかった…料理でも庭の手入れでも……全てが初めての事ばかりで…驚きと同時に、酷い焦りを感じてしまう」
大太刀を振るう程の力がありながら、何気ない手伝い一つも碌に行えない…
皆は優しく自分を支えてくれるが、それが時に苦痛に感じてしまうこともある。
「お前はまだ顕現して間もない刀剣男士だ。長くここの本丸に住む彼らとは知識も何もかも違っても仕方あるまい。……本当はお前も、それは分かっているのだろう?」
「…………それは…」
相手の指摘に口籠る。
分かってはいる…分かってはいるのだ。
それに対して焦っても、それは意味がない事も心では理解している…のに……
この男に優しく世話を焼かれると、どうしようもなく心が乱れてしまうのだ。
そして自分の不甲斐なさに絶望してしまう。
「…お前に…皆に世話ばかりかけてもいられない……」
口に出し、思わず『皆に』と付け加えて誤魔化したが、果たして向こうには気付かれてしまっただろうか…?
ちら、と三日月の方を窺ったが、向こうは変わらず飄々とした態度を崩さない。
「そうか? うちの本丸は皆、世話焼き達が集まっているからなぁ…そう気にするな。勿論、俺もだ」
「………そう言われても、な…」
気になるものは気になる、と珍しく面影がほんの少し拗ねた口調で言うと、三日月が実に楽しそうに…嬉しそうに笑う。
「まぁこの本丸と縁を結んだ以上は、覚悟を決めて貰わないとな」
「………お前は良いのか? 刀剣男士の長であるお前に一番皺寄せが行くかもしれないのに?」
「ああ、望むところだとも」
「…本当に変わっている」
お前がそう言うのなら、と結局面影が引っ込む形になったところで、暫く二人は無言で月を眺めていた。
何故だろう。
こうしていると、他の誰かとならこの無言の間が気まずく感じる事もあるのに、彼が相手だとこの間すら心地よく感じられる。
自分でもそうと感じていない内に、彼を近しく思っているのだろうか…?
それとも、彼も名を冠する月が、ここまで美しく見えるからだろうか…?
「……月が」
「?」
「…………月が、綺麗だ」
ほう、と息を吐きながら、感嘆して漏らした言葉に、ふと隣の男の肩が揺れた気がした。
「?」
そちらへと視線を遣ると、何故か、きょとんとした表情の三日月と視線が合った。
「?……どうした?」
「………いや」
問いかけた面影に、暫し沈黙した三日月は何故か軽く吹き出して笑いながら首を横に振る。
「やはりお前はまだまだ子供だな」
「何だそれは」
「はは、すまんすまん」
まだくっくと笑いつつ、相手はゆるりと立ち上がって面影にも立つように促す。
「さて、流石にこれ以上は明日に障る。じじいの暇潰しに付き合ってくれて有難う」
「…ああ」
面影も同じ様に立ち上がったところで、三日月が手を伸ばし、相手の頭を優しく撫でる。
「おやすみ、面影」
「……」
ああ、またこの慈愛に満ちた笑顔……
月光の下で見るそれは夢の様に美しく、面影の胸を高鳴らせた。
「……ああ」
その笑顔を間近で見てしまった今宵は…果たして眠れるだろうか……?
そんな漠然とした不安を抱えながら、面影は自身の寝所へと戻っていった……
面影が、自分の発言した言葉に別の意味が隠されていた事を知ったのは、その夜から数日後のことだ。
「へぇ~、人間の言葉の言い回しって面白いね」
「意外と知らないまま使ってそうなものもあるもんね。例えばこれとか…」
居間で頭を突き合わせて話していた鯰尾たちの声が聞こえ、丁度暇を持て余していた面影がひょこりと顔を出す。
「何を話しているんだ?」
「あ、面影さん」
「いち兄が貸してくれた本。言葉の意味とか、別の言い回しとか、俺達は隠密行動で人と話すこともあるから、たまには勉強しなさいって言われて…」
鯰尾と日向が見せてくれた本の開いた頁を素直に眺めながら、面影はふと、気になった一文に目を留めた。
「…月が…綺麗?」
「あ、やっぱりそこに目が行くよね」
僕もそうだったし、と日向が同調する様に頷く。
「月が綺麗ですね、で『あなたが好きです』になるなんて、普通は考えないよ。いち兄は趣があるって言ってたけど」
「うーん…僕は直接好きって言った方が相手に通じると思うけどなぁ…」
「だよねぇ」
二人が賑やかに話している脇で、面影は呆然として黙り込む。
待て……
その言葉…最近、何処かで言ったぞ…?」
「あれ? 面影さん、どうしたの?」
「あ、いや…確かに変わった言い方だと思った……その、言葉とは、難しいな」
何とかそう言って取り繕った後で、彼はふら、とそのまま廊下に出た。
何処に行く宛てもなかったが、ただその言葉を何度も頭で繰り返しながら足を進める。
(…あの時……)
あの月夜……三日月と共にひと時を過ごしたあの場所で…自分は彼に何と言った…?
『…………月が、綺麗だ』
それは、言葉を変えれば、『あなたが好きだ』という意味……?
(…そう言えば、あの時の三日月の表情はおかしかった…)
ほんの少しだけ驚いた様な…意外な言葉を聞いたような顔で自分を見て……そして…
『やはりお前はまだまだ子供だな』
(ああ……知っていた、彼は)
その言葉の意味するところを知っていて……けど、私が何も知らない態度だったから……子供だと言ったのか。
(……失礼になってしまっただろうか…三日月に対して…)
知らなかったとは言え…まさか自分が相手を好きだと告白するような真似をしてしまった。
今からでも断るべきだろうか、そうではないのだと。
ただ、本当にあの時は月が綺麗だと言いたいだけで……別に相手に対して……
(……いや?)
ふと、面影は思い直す。
違う…というのも、間違っている様な気がする……
愛の告白という意味ではないにしろ…私は三日月の事は好ましく思っている。
では、あの言葉を撤回するというのも、違う話なのではないか……?
「……」
どういう気持ちをどういう言葉で表せばいいのか分からず、思わず面影は手を額に当てて顔を顰めた。
私は…彼に対して何をどう言えば良い…?
「面影?」
「っ!!」
間が良いのか悪いのか分からないタイミングで、面影は彼の人の声を聞いた。
は、と顔を上げると、丁度向こうから三日月が歩いて来るところだった。
顰めた顔を見られてしまったのか、相手は不安げな面持ちでこちらを見つめている。
「どうした? 気分が悪いのか?」
こういう時でも自分の心配をしてくれる相手の優しさが心苦しい……
「いや……その…三日月」
「ん?」
「……その…先日の……夜の時に…月が、綺麗だと…」
「……ああ、あれか」
たどたどしく言う相手の言葉に、察した三日月は気にするなと軽く笑う。
いつもの…いつもと同じ笑顔だった。
「気にしていない。あの夜の月は確かに美しかったからな。お前の言葉は嘘ではなかった」
「それは……そうだが……私は…」
謝れば良いのか、何かを弁解するべきなのか、自分で自分が分からなくなってくる……
「……違う…そういう意味ではなかったとしても、私はお前の事を好ましく思っている……だから、あれは間違いとか嘘とかではなく……ああ、確かにお前の言う通り嘘ではなく……」
何を言っているのだろう、自分は…一度言葉を止めて、もう一度考えて……
困惑の表情のまま、一度口を閉ざしてから目の前の男を見た面影がひゅっと息を吞む。
いつの間にか、目前に三日月の顔があった。
誰が見ても見惚れるほどの、究極の造形美とも言える顔が……
「み…かづき……?」
「……お前はそのままで良い…子供のままで」
何故か、困った顔でそう言う。
どうしたら良いのか、思いあぐねている様な表情の三日月はとても珍しく見えた。
彼はいつも泰然として、全ての刀剣男士の前に立ち、間違いなく彼らを導いていく存在…
自分もその彼について行きたいのに、何故か彼は自分にそのまま幼いままであれと言う。
「!…何故だ、私もお前や皆と同じ刀剣男士だろう…?」
「………俺は口下手だから上手く言えん」
「本気で言っているのか!?」
あれだけ男士達に理路整然とした語りを披露しておきながら!?と尋ねてくる相手に、三日月ははぁ、と躊躇う様な溜息を一つ零し……
「…子供でなければ困るのだ」
「え?」
何がそこまでお前を困らせる…と問おうとして、面影の目の前が暗くなる。
(え?)
目の前に、男の首飾りの三日月があった。
そして、両腕を相手のそれで掴まれる感触が伝わってくる。
それを認識するのとほぼ同時に、柔らかな何かが、自身の額に触れるのを感じた。
「……っ!?」
しとりと湿った柔らかな感触は、ほんの一瞬だけ額に触れ……離れたかと思うと…
ちゅ……っ
「!?」
自らの右頬に軽く高い音と共に触れてきた。
額よりも長い時間…しかしそれも僅かな時間の間に、温かい、微かな相手の吐息が右頬を掠める。
(な………っ!?)
硬直して動けなかった面影が、それが何であるか察した途端、体中がかっと熱くなる。
「みかづき…!?」
声を上げた時には、既に相手の柔らかな唇は離れ……少し離れたところで彼はまだ困った顔で笑っていた。
「……子供には、ここまでだ」
「………!?」
「…子供でなければ………じじいはお前にもっとひどいことをする」
だから、そのままでいてもらわねば困る………
「………」
何も言えなくなってしまった面影を、少し自嘲めいた笑みで見遣ると、三日月はゆっくりとその場を去って行った。
しんと静まり返った廊下でぼんやりと立ち尽くしていた面影が、やがてぐらりと身体を傾げて壁にぶつかり、前のめりになる。
(……何だ…今のは……!?)
あれは…間違いなく三日月の唇だった……!
額に落とされ……そのまま、右頬に……吐息まではっきりと思い出せる…甘いのに、熱かった…
けど、何故……!?
「………三日月?」
子供でなければ………どうしたと……?
一人、廊下で自らの身体を掻き抱いて、面影は苦悩の呻きを漏らした。
「……お前は一体……何を…?」
(……しまった…)
その場を立ち去った後、三日月は今更ながらに己の軽率さを悔いていた。
(…参った………これからもずっと、胸の内に留めておく筈が…)
あの必死な表情に……縋るような瞳に……耐えられなくなった……
「…ああ」
溜息をつき、先日の月夜を思い出す。
何故か眠れず独りであの場で月を見上げていたら、ふと、彼に会いたくなった。
一緒に、この美しい月を見上げていたいと願ったら……その場に彼が現れたのだ。
もしかしたら、そのつもりがなかったとしても自分が潜在意識の中で起こしてしまったのかもしれない…悪い事をしてしまったが、お陰で良いひと時が過ごせた。
本人が意識していなかったとしても、『月が綺麗だ』と言ってもらえた。
そして先程も…好ましく思っていると言ってくれた。
「………純真で真っ直ぐだな…お前は」
彼もまた、自分にとっては好ましい者だが……抱く想いはあれよりもっと邪だ。
だから、封じなくてはならない……そう思っていたのに、あっさりとその思いは破られてしまった。
「…俺は…果たして耐えられるのだろうか…?」
お前に触れない日々に……ただの好々爺として接し続ける日々に……
その問いに答えられるものは、今は誰もいなかった………