狸寝入りの恋人




 もしかしたら、自分は性格が悪いのかもしれない。

「………はぁ」
 かたん……
 洗い終わった食器を全て既定の棚の場所に仕舞い終わり、扉を閉めたところで溜息が漏れる。
 今日も面影はいつもの通り、三日月の家を訪れて身の回りの世話を堅実に行っていた。
 現在、家の主である三日月本人は夕食を済ませた後、仕事の為に書斎に籠っており、今、面影が居るダイニングキッチンには居ない。
 自分が彼に雇われた当初は、三日月は特に用事もないのに書斎から出てリビングやダイニングキッチンをうろうろする事が多かった。朝も昼も夜も。
 『何か欲しいものが?』と尋ねても、『いや…』と言葉を濁すばかりだったが、根気強く尋ねてみた結果……
『……お前が、俺の部屋にいてくれることが嬉しくて、つい……』
と、ちょっと照れた様子で視線を逸らしながら理由を話してくれた。
 聞いた直後は何を子供みたいな事を…と内心呆れたが、直ぐに面影はその考えを改めた。
(そう言えば……三日月の部屋は……)
 ここに家政夫として訪れ、全ての部屋を掃除する様になってから気付いた事があった。
 この家の中には、三日月以外の誰の気配もないのだ。
 通常、一人暮らししている場合でも、その住まいの何処かには何かしら、その人と近しい人物の『気配』があるものだ。
 それは家族で撮った写真であったり、故郷から送られてきた差し入れであったり、恋人と付き合っている証の何かであったり……形は様々だが。
 それなのに、少なくとも自分が此処に通う様になってから今迄、そんな存在を思わせる様な『気配』を感じた事は皆無だった。
 まるでこの空間だけ、社会から完全に隔離された異世界だと言われても納得してしまう程に……
『家族は…いないのか?』
 相手の事情に踏み込み過ぎだろうかと思ったものの、家政夫として勤める事になった以上、最低限の交友関係については把握しておくべきと判断してそう尋ねた事があったが、三日月は特に気にした風もなくあっさりとした口調で答えた。
『誰もいない。特に親しくしている者もいないのでな、そういう関係を匂わせて来る輩は全員無視して構わんぞ』
 そこまで外界との繋がりを拒絶している男が、どうして偶然出会った自分を直ぐに家政夫に取り立ててくれたのか……まるで分からなかった。
『…………お試し期間を設けてくれても…』
 もしかして温和に見えて実は非常に、ひっじょう~~に気難しい性格で、他人との関りが煩わしいのかもしれない……とすれば、家政夫など初体験の自分にそんな大役が務まるとも思えない。
 なら、互いにとって不利益を最小に抑える為に、先ずは試用期間を設けた方が良いかもしれない、と面影が提案してみたところが……
『給金に不満があるか!? もしそうならお前の言い値で雇うから考え直してくれ!』
と、逆に縋られてしまって困惑してしまった。
 そんなカオスな状況の中、面影なりに考えた三日月の執着の理由は、自分も彼と『同類』だったからではないか、という事だった。
 正直、自分も天涯孤独の身の上、これまでの人生で特に親しい友人などもいない。
 三日月の排他的な生活に驚いておきながら、いざ蓋を開けてみれば同じ穴の狢だったという訳だ。
 もしかしたらこの男はそういう類の嗅覚に優れており、こちらを同類と見分けた上で雇ったのかもしれない…
 一度はそう考察し、面影なりに納得もしていたのだが………
(今考えたら……違う……んだろうな…)
 過去の自分自身の推理にダメ出しをして、再度、面影ははぁ、と溜息をつく。
(……困った………本当に経験がないから…こういうの)
 脳裏に浮かぶのは、いつかの夜…リビングのソファーで寝入ってしまっていた時に起こった出来事。
 目を閉じていたのでその光景を見ていた訳ではないのだが、あの俗世離れした美丈夫は、眠っている(振りをしていた)面影の腕を取り、熱烈な告白をしながら口づけを与えてきたのだ。
 それだけに留まらず、腕から手を離すと今度は顔の至る所に優しいキスを幾度も幾度も落としてきて………
 今思い出すだけでも顔が赤くなるのが止められない。
(…上手く狸寝入りで誤魔化せたけど……気を抜いたら鼻血が出てもおかしくなかったぞ…)
 流石にそれは例え話だろうが、つまりそれだけ面影にとっては衝撃的、且つ刺激的な出来事だったという訳だ。
 しかし、そう考える自分は誰にも責められる謂れはないと思う、と、面影は自分の動揺を正当化する。
(男の私から見ても絶世の美貌を持っている三日月にあんなコトされたら……私じゃなくてもどんな相手でも同じ状態になっただろうし………寧ろ、寝たふりをしたのは紳士的だったと思う)
 その気があったなら、向こうから手を出された時に乗じてそのままその先に進んでいた可能性だって………
「…………」
 そんな考えが頭の中に浮かぶと、連想的にあの日の三日月に手を伸ばして彼の事を誘う誰かが自分の姿と重なった。
 自分以外の誰か、三日月に近しい人物に覚えがあればその者を思い浮かべたかもしれないが、残念というべきか幸いというべきか、それに該当する相手はいなかった。
 元々、自分と同じく人間関係が非常に希薄な男だったので、そこに違和感は感じなかったが、もしかしたら無意識の内に三日月とそんな関係がある誰かを自身が認めたくなかったのかもしれない。
 脳内で相変わらず面影は眠る振りをしていたが、幽体の様に彼と重なっている顔が見えない別人は、面影を嘲笑う様に三日月にしがみつき、彼もそんな相手に微笑みを返してゆっくりと身を重ねる様にソファーに横たわろうと……
(…っ!!)
 それ以上の想像に堪えられず、無意識の内に首を左右に振ってその光景を打ち消しながら面影は手を口元に当てた。
(……経験がない癖に……私は何を考えているんだ………)
 あの日以降、三日月のあの言葉と唇の感触が消えてくれないのは…衝撃的だったのもそうだが、もう一つ大きな理由がある。
(…………なんで、あれだけの事で……あんなに気持ち良かったんだろう…)
 ほんの少しだけ、あの唇の小さな面積の箇所が皮膚に触れただけの話だ……なのに、触れた箇所から小波が拡がる様に心地良い感覚が身体を支配して、それと同時に熱を生んだ。
 思わず吐息を漏らしたくなる程に身体が甘く痺れ、口づけが繰り返される度に身体が熱くなった。
 ドラマや映画で見る恋人達のキスシーンで、何故あんな反応を示すのかとつくづく不思議に感じていたが、実際に自分が体験者になってみると確かにそうなると分かった。
 しかし、彼らと自分とでは、多少状況が違う事も面影は理解していた。
「………」
 ふっと、指先で己の唇に触れてみる…が、やはりあの時のような心地よさは生じない。
 いや、そもそも………
(……唇には…してもらっていないし…)
 別にしてほしいと願っていた訳ではない、そもそもそういう関係を望んでいた訳でもない。
 ここまでの行為をされたのは確かだが、それにしたって三日月が何処まで考えての事か分からない。

『俺の『大切な人』はお前だけだ………面影』

 そう、そういう言葉も聞いた、確かに聞いたが……それでも、自分にはまだ信じられないのだ。
(本当に、大切だとか…好きだとか思っているのなら……唇にもするんじゃないのか?)
 頬や額……腕や指……口づける場所によってその意味は違うのだという話もある。
 実はあの夜、ソファーから自分の家のベッドに運ばれた後、布団に潜りながらポチポチとスマホを操作してそれらの意味を検索してみた。
 いい大人が何をやっているんだと内心自分で突っ込んだものの、指を止める事は出来なかった。
 検索結果には友愛や慈愛、敬愛や親密、という前向きな言葉が並んでいたものの、そのどれらにも恋愛的な意味を示す言葉はなかった。
 別に三日月が全ての意味を理解していたという証拠はない、そこまで考えていたとも言い切れない。
 けれど………唇を塞がれなかった事は、かなり大きな事実として面影の心に残っていた。
(大切な人……と言っても、それこそ色んな意味合いで言われる言葉だし、な……)
 友人だって、家族だって、言い換えたら『大切な人』だろう。
 自惚れて良いのなら、『使える家政夫』も雇用主からしたら『大切な人』になるだろう。
 あの時は激しく動揺していたからもっと親密な関係を想像していたが、今、冷静になってみると、本当にそう受け取っていいものなのか、猜疑心だけが大きくなっていく。
(……私など……三日月の足元にも及ばない、取柄もないただの男なのに…)
 キッチンでの作業が一段落し、面影は悶々としながらその場を離れ、リビングに向かう。
 そしてそこに着くと、彼はその場に鎮座しているソファーを上から見下ろした。
 三人は裕に座れるアイボリーのインテリアソファーは、座り心地も抜群で、面影も小休止を取りたい時にはよく愛用している場所だ。
 しかし、今それを見て面影が思い浮かべるのはあの日の二人と……あれから自分がこっそりと仕組んだ三日月への謀だった。
(………私は…)
 性格が悪いのかもしれない……三日月から軽蔑されても致し方ない程に。
 すとんとソファーに座り、ぐ、とシートの前角の部分を握りながらそんな自嘲気味た事を考え、そのまま彼はソファーにぱたりと倒れ込んだ。
 ああ、また私は…あんなに素敵な男性を騙すような真似をするのか………?
(何を……期待しているんだろう、私は……)
 実は、あの夜、三日月が自分に秘密の悪戯を仕掛けた夜から今日に掛けての約一か月の間……面影はこのソファーで幾度か狸寝入りを繰り返していた。
 連日やったら流石に悪巧みを見抜かれてしまうだろうから、五日に一回あるかないか……ちょっと仕事の合間に転寝をしているという態で、だ。
 あの夜、自室に運ばれた後は情緒がぐちゃぐちゃになり、一日も早く忘れて二度と居眠りなんかしない!と誓ったのに……あれから日が経つにつれて、その誓いがぐらぐらと揺らぎ始めてしまった。
 何故なら、結局忘れられなかったからだ。
(……あれは………狡い…)
 あんなに美しい男に、その目的は何であれ口づけを受けている瞬間、痺れる程の甘美な快感が身体を支配し、そのままじくじくと脳髄が侵されていく感覚………
 どうしても忘れる事が出来なくて、あの日から一週間ほど過ぎた頃、面影は駄目な事だと認識していながら敢えてソファーで自主的に狸寝入りを実行したのだ。
 勿論、同じ条件を再現したところで再び三日月が手を出してくるという確証はない。
 あの日は二人で外食して三日月は少なからずアルコールも入っていたと記憶しているので、酔った弾みの戯れだった可能性もある。
 しかし、それがはっきりするのなら、自分もあの夜の事は一夜の夢だったのだと忘れる事が出来る、それはそれで良いと思った。
 果たして、面影がソファーに寝転がり、目を閉じて眠った振りを始めてみるとどうなったか………
(……期待していなかった訳じゃ、ない…けど……)



 初めて口づけを受けてから七日後の話……
 いつも三日月が書斎から出て来てリビングで一息つく時間帯になると面影の思惑通り、彼の男はリビングに姿を現した。
 当然、自分は眠っている振りをしているので身体を動かさないまま。
『……面影……?』
 ソファーで横になっている自分に気付いたらしい三日月に呼びかけられたが、今は『眠って』いるので答えない。
 眠っている態なので瞳を開く事も出来なかったが、気のせいか、こちらが無反応なのを察した男が微かに動揺した様な気配を感じた。
『………面影?』
 先程より少しだけ控えた声量で再度名を呼ばれたが、返事はしない。
 己自身にも、今、相手を騙しているのだという事実を突きつけている行動なだけに心が痛んだが、今更無かった事にも出来ず、加えて狸寝入りがばれないかという不安もあり、動悸が速まるのを感じる。
 自身の鼓動を耳に響かせている中で、三日月が音を消して近づいて来るのが分かる。
 こちらを起こさない様に、という気遣いだと思ったが、その裏に、これから彼が起こす行動を秘匿したいという意味もあったのではないかと、今になって思う。
 そして面影が白状した通り、自分の期待に応える様にあの美しい男は再び面影に手を出してきたのだ。
 自分の名を呼ぶ唇は閉ざされ、代わりにあの夜の様に肌に優しく触れてくる………
(…う、わ………やっぱり…三日月……)
 あの夜、酔っぱらっていて取った行動という訳でもなかったのか……
 早鐘を打つ心臓を抑える事も出来ず、しかし、あの夜から記憶から消えなかった甘い感覚を再び味わいながら、面影は心の深淵で昏い笑みを浮かべている自分自身の存在に気が付いた。
 ああ、嗤っている……隠していた本心を見透かして、素直になれと煽っている。
(分かっている……ああ、分かっていた………)
 相手に縋り付きたいと疼いている腕を必死に抑えつけながら、面影は自身の隠れた欲望に気付いてしまった。
 そうだ、私はこうされることを悦んでいる……だから望んでいたのだ。
 三日月と共に過ごしていた日々の中で、自分でも知らない、気付かない内に…惹かれていた。
 惹かれていたのに、本心から目を背けていたのは自分の不甲斐なさの所為だ。
 こんな非力で何の地位もない若造が、どうしてあんなカリスマの塊みたいな存在と並び立てると思うのか。
 叶わない夢など、見ない方が幸せなのだ。
 夢さえ見なければ、只の家政夫として身の程を弁えてさえいれば、三日月の傍には居る事が出来るのだ。
 遠い未来か、近い未来か…いつか三日月が人生の番を得る時はいずれ来るのだろうけれど、その時には流石に自分はそんな二人の愛の巣からは出て行かなければならないのだろうけど、せめてその時までは、傍にいさせてほしい。
 そうやって目を背けていた……何という醜い欺瞞だろう。
 そんな醜悪なもう一人の己からずっと目を逸らしていたのに、他ならぬ三日月本人が無理やり頭を掴んでそちらへと目を向けさせる真似をしてくるとは思わなかった。
 しかも、こんな……拒めない程に残酷で心地よい罠の様に捕えてくるなんて……
(なら、何で……どうして………)
 彼はどうして、頑なに唇を塞いでこないのだろう……?
 ここまで思わせぶりな行動を起こしておきながら、相手は決してこちらの唇を奪おうとしてこない。
 頬や額…顎やこめかみには繰り返し唇を触れさせ、感触を愉しんでいる最中必死に身体の震えを抑えつつも、面影はどんどん自分が欲張りになっていくのを感じた。
 傍にいるだけで良いと思っていたのに、今は、唇への口づけを恋人の様に欲している。
 もし、もしここで三日月が子供騙しの様な場所ではなく、唇への口づけをしてくれたら……きっと自分は腕を伸ばして相手を捕らえ、そのまま気持ちを告白していた。
(三日月……………)
 どうか、奪ってほしい………もし、お前がそれを望んでいるのなら……
 しかし、結局、三日月が面影の秘めたる願いを叶えてくれた日は訪れる事はなかったのだ………




 意識を現在に戻し、面影は溜息をつく。
(……これだけ唇へのキスを拒まれているとなると、勘繰るなという方が無理だ)
 何も知らないと思ってこういう事を続けているとするなら、それはそれで悶々とする。
(もしかして、いつ気付くのか試して自分を揶揄っているとか…? でも、仮にそうだとして、私に気付かれた後にはどうするつもりなんだ……)
 まさか…考えたくもないが、そういう、割り切った関係を望んでいるのか…?
 それこそ、決して受け入れられない事案だ。
 人間関係に関してはずっと淡白だったから深く考える事も無かったが、どうやら自分は、色恋については潔癖に近い感性の持ち主だったらしい。
 他人がどういう趣味嗜好を持とうと興味すら湧かないが、もし万が一自分が誰かを好きになるのなら、多分浮気など出来ないと思う。
 そして願わくば、相手にもそうであってほしい……と。
(………三日月も、そうだと思っていたけど)
 こちらにあれだけ内緒で悪戯を仕掛けている一方で、もしかしたら他に唇を重ねている誰かがいるのだろうかと思うと、胸がじりじりと焼ける様な痛みに襲われる。
 彼が何を考えてあんな事を仕掛けているのか……分かりかけていたと思っていたのに、今は本当に分からない。
 今も三日月がここにいない隙を突いてソファーに寝る事も出来るのだが、また唇へのキスは拒まれるのでは、という不安が先に立つようになってしまってそんな気にもならない。
 これも、狡い自分には当然の罰…報いの様なものか。
 手を差し出される事を望んでいるのに、手を伸ばす事は怖くて出来ないのだ……拒絶されたくないと。
(私は、こんなに憶病だったのか……)
 そこに丁度、書斎から出て来た三日月が足を踏み入れてきた。
「面影? 片付けは終わったのか、なら少し休まないか?」
「あ、ああ…」
 横にはなっていたものの、しっかりと目を開いている姿を見られたので、今日は寝入っているとは看做されなかった様だ。
 こちらの心中を知る筈もなく気安く話しかけてきた男に頷いて返事をすると、ゆっくりと身体をソファーから起こし、男は同じくソファーに近づいてその片方の端に座りながら、目の前のガラステーブルの定位置に置かれていたテレビのリモコンを手に取りスイッチを入れた。
 テレビの大画面に映ったのは、何やら洋画のドラマか映画の一シーン。
 どうやらジャンルとしてはアクションの様だが、そこに出ているのはイケメンと十分に呼べる程度の男性と、それに釣り合う美貌を備えた美女だった。
 どうやら今はアクションシーンの合間のドラマパートらしく、気安い感じの会話をしている二人の声が軽快に聞こえてくる。
 吹き替え版だったが、どちらの声質も俳優のイメージにはよく合っていた。
「これ、有名なシリーズものだ」
「知っているのか?」
「少しだけ……巷でちょっと騒がれていたのを見たことがある」
「ほう…」
 そういう話題については疎い三日月に短く説明してから、面影は約一人分の隙間を空ける形で三日月の隣に座り直し、テレビに相対する様に身体を向けた。
 そして暫くの間は二人ともが無言になってテレビの放映内容を見ていた。
 見始めた時からあちらの世界ではムーディーな雰囲気が漂っていたが、その中で徐々に男女の距離が近づいていき、愛の告白らしい台詞を囁き合いながら熱烈なキスシーンを披露した時、面影の口から不意に、囁きの様に小さな声が漏れた。
「…………か」
「ん…?」
「…なぁ、三日月」
 呼び掛けた後、面影は首を巡らせ三日月へと顔を向けて、ずっと心の奥に仕舞いこんでいた疑問を尋ねた。
「……キスって……したこと、あるか?」
「………」
 面影は知っている、彼が密かに自分に唇ではなくても他の場所にキスをしている事を。
 こういう質問をして、相手がどう返事を返すのか……自分にキスをしていたことを暴露するか、それとも秘密のままに隠し通そうとするか……
 答えを返されるとしても、おそらく曖昧な事しか分からないだろう、しかしこれで相手の望みは分かるかもしれない。
 自分への口づけを白状して弁解なり告白なりしてくるのだろうか、それとも否定して全てを隠すことを望むのか………
 三日月の沈黙の時間は短かったのかもしれない、が、それは面影にとってはとても長く感じられ、その内に鼓動まで速まってくる。
 果たして三日月は………
「……んん、前世では数えきれない程にしたな」
「前世、て……」
 構えていたところで肩透かしを食らった面影が思わずそう返したが、相手の不満を予測していたのか、直ぐに三日月は付け加えた。
「ああ、今生では何度かはあるぞ。但し、唇へのキスは……一度もないな」
 相手についてこそ言及してはいなかったが、ある意味、これは告白にも等しかった。
 少なくとも、自分にしていた事を完全に隠蔽する気はないらしい。
 それに唇へのキスもなかったという言葉に、何処か安心し、喜んでいる自分がいた。
 正直、自分と出会う前の相手の私生活については全く知らなかったので、その頃に親しい人物がいたかどうかも不明だった。
 しかし三日月の言葉を信じるなら、少なくともそういう行為をする相手はいなかったという事だ。
 それが、何故だか嬉しいと感じる……何故……?
「ふ、ふぅん………お前程に良い男なら、誰かしらいそうなものだけど」
 何とか会話を続けようとしてそんな正直な感想を言った面影に対し、三日月は小さく頷きながら答える。
「唇への口づけは、特別なものだからな」
「!……そう、だな」
 暗転直下、という言葉が目の前に浮かんだ気がする。
 その返事を聞いた瞬間、すぅっと面影の全身から熱が引いていった。
 相手の意見には賛成だ、唇への口づけは男女問わず大切な人にだけ許したいものだと思う…甘い考えなのかもしれないが。
 しかし、彼は一度もそれをしてくれた試しはない……という事は、やはり三日月は自分とはそういう関係になるつもりはないという事なのか。
(ならどうして………)
 私を、そんな悪戯の相手に選んだんだ……!
 全力で叫びたかったのにそれが出来なかったのは、激しく渦巻く感情をまだ上手く消化出来ていなかったからだろう。
 戯れの相手になるぐらいなら、こんな気持ちに気付く事無く、知己として、友としての関係のままでいたかった……!
(…………あれ、胸が痛い……)
 遅効性の毒の様に、三日月の先程の言葉が胸から身体全体に澱みを拡げていくようだ。
 何故、こんな理由もない痛みが生まれているのだろう………
(ああ………そうか、傷ついているのか………私は)
 只の戯れに選ばれた事も、その程度の人間だと軽んじられてしまった事も……何より、三日月がそれをしてしまったという事実が、辛い………こっちが勝手に決めつけて押し付けた理想像に過ぎないけど、彼だけはそんな人の心を弄ぶような人ではあってほしくなかった。
(……流石にちょっと…堪えるな)
 テレビの中の話は進んでいるのに、もう一向に頭の中に入って来ない、聞こえる会話も只のノイズの様だ。
 もしここで話の内容について話しかけられても気の利いた返事を返せる自信がないし、そもそも、何を話す気力もなかった。
(帰ろうか………適当な言い訳をつけて)
 結構な心のダメージを食らった所為で、立ち上がるにも苦労しそうだ……とぼんやりと虚無に近い心境の中で面影が考える。
 明日の朝も此処に来る予定…いや、仕事である以上来ないといけないのだが、普段通りに振舞えるだろうか…と考えているところで、三日月が先程の返事に続くような言葉を言った。
「赦しを得られていないのでな、出来ない」
「…………………はい?」
 赦し? 何の事だ?
 一瞬、更に虚無になった思考のまま反射的に三日月の方へと視線を向けた面影は、相手がこちらを見つめている瞳が少しだけ笑っているのに気付いた。
「唇への口づけが大切なものだと思っているからこそ、相手の赦しもなくする気はない………俺はそこまで身勝手な男ではないぞ」
「そっ………そう…」
 相手の視線を受け止める事が気恥ずかしく、慌ててテレビの方へそれを移す。
 しかしその内容については全く意識を向けられず、ひたすら三日月の発言について考える。
 つまりそれは…どういう事だ?
(ええと……唇への口づけをする時には、相手の意志を尊重して許可を取るって事、か? なら私にそれをしなかったのもそういう理由が…? 言われてみれば確かに寝ていたら許可も何もないだろうけど……いや、でも、私がそういう対象だって事だとはまだ……単なる揶揄い目的とか? いや、三日月はそんな事を好んでやる様な人となりではないだろうし…)
 ぐるぐるぐる…と様々な考えが頭の中を巡っていくのを何処か他人事の様に感じていると、
「さて…」
「?」
 不意に両肩に何かが触れ、そのまま力が込められたかと思うと、面影はあっさりとソファーの上に押し倒されていた。
「…は………?」
 押し倒されたまま、天井を見上げる形でこちらを見つめてくる三日月を確認し、相手に肩を掴まれ倒されたのだと察する。
 全く予想外の事が生じた時、自分はこんなに間抜けな声を出すのか…と変な感動を覚えている面影の視界には、相変わらず何かを愉しんでいる様な笑みを浮かべている三日月の姿。
 脈絡ない二人の今の体勢に、どう尋ねるべきかと悩んでいると……
「そろそろ、赦しを賜りたいのだがな……」
「ゆ………」
 三日月の言葉も完全に予想外で、面影は相変わらず間抜けな声を上げたが、何とか首を振りながら相手に答える。
「な……何を言っているのか、わから……」
「狸寝入りは苦手の様だな…?」
「!?」
 びくっと全身が驚愕で震える。
 それは押さえている三日月の手にも伝わっただろうと確信出来る程に大きなものだった。
 しかし、もし体動を抑えられたとしても、結局三日月の目を誤魔化す事は不可能だっただろう。
 何故なら、三日月の問い掛けを聞いた面影が途端に顔面蒼白になり、どっと冷汗が噴き出してきたからだ。
(ま、さか…………ばれてた……!?)
 もしかして、ソファーで寝入った振りをして三日月のキスを期待していた事も……?
 動揺は見せてしまったものの、まだ全てを白状する気にはなれなくて、悪足掻きだと思いつつも面影は取り敢えず惚けた振りをする。
「な、何のこと…か……」
 もう少し上手く演技出来なかったのか…と悔やむ程に下手な返しをした若者に、三日月は憎らしい程に冷静に指摘した。
「肌に口づけた瞬間、筋が張っていた……慣れていないのが丸わかりだ」
「っ…!!」
 言外に『初心なのだな』と言われた様に感じ、蒼白だった顔が今度は見る見るうちに真っ赤になっていく。
 おそらく、いや、間違いなく既にばれている。
 相手の様子から、きっと初めて悪戯を施された時から向こうには狸寝入りがばれていたのだろう。
 しかも、それを知っていたのに彼は今まで何も言わず、こちらの思惑に乗る形で口づけを……キスを……
「俺を誘う様な真似をしたのだ………お前も興味はあるのだろう? ならば」
 くい、と右手で頤を持ち上げられ、続いてずいと向こうの顔がこちらのそれに接近してきた。
(う……っ…!)
 これだけ自信に溢れた行動を取られてしまうと、相手によっては多少なりとも反感を覚えてしまいがちだが、これ程に美麗な男だとそんな感情も迷子になり、ただ見惚れるだけしか出来ない……
(ほ……ほんっとうに狡い…!)
 美貌をそういう誤った使い方で………いや、そもそも美貌の正しい使い方、とは……?
「俺としてみるか?……キス」
「っ!?!?!?」
 いよいよ向こうからの大胆な台詞に頭が沸騰し、面影ははくはくと口を開閉させる。
 結局、直ぐには言葉を継げず、真っ赤になったままに三日月を見つめたままの若者だったが、それでも数秒の沈黙の後、視線を横へと逸らしながら答えた。
「い、いや……っ! そ、そういうのは……ちゃんと…その…好き合ってる者同士で…やる、もので……」
 視線を合わせられなかったのは、後ろめたさだけではなく、照れもあってのものだという事は、紅潮した顔から簡単に推し量る事が出来た。
 そんな顔色の事などパニックに近い状態の面影が気付ける筈もなく、彼はひたすらに、あれ程に唇へのキスを望んでいたのに、いざ迫られたら怯んでしまうなんて……と、己を叱咤していた。
 そんな風に若者が混乱している間に、三日月はあっさりと気持ちを告白してきた。
「俺はお前を何よりも好いておるが、お前はそうではないのか?」
「っ!?」
「……つれないな、俺はお前の赦しをこんなにも希っているのに…」
「ゆ、赦しって……狸寝入りだと知っていたなら、全部分かっているんじゃないのか…?」
 自分が三日月からのキスを望んでいた事なんて、今までのこちらの行動から彼はとっくに分かっていた筈だ……だから、今もそう、そうやって不敵な笑みを浮かべて見透かすような目をしているのだろう。
 ああ、嫌だ、この人はとても優しいのに意地悪だ。
 意地悪なのに優しいから、嫌いになれないし拒絶も出来ない。
「ああ、分かっているつもりだ…だが、お前の口から聞きたい」
 肩を押さえる力は聊かも緩められる気配はない。
 これは間違いなく、自分が答えを返すまで解放してくれるつもりはないらしい…
「う……」
 請われるまでもなく、三日月に対する気持ちは既に決まっているのだが、それは決して軽いものではない。
 そもそも、軽ければこんなに悩むこともなかっただろう。
 それだけは相手にもしっかりと理解しておいてもらわなければ……
 後で裏切られるぐらいなら、最初から無いものとした方が良いのだ。
 それがきっと、男の為にもなる筈だ。
「……私は………遊びの恋愛は、出来ない…」
「俺もだ」
「お、重いかもしれないんだぞ、お前がうっとおしいと思ってしまうかも…」
「俺も相当重いぞ、比べてみるか?」
「そ…………それに…」
「それに?」
「…………キスなんか…したことない、から…………きっと下手だ……がっかりさせる……」
 横に逸らしていた視線が下へと向き、面影は伏し目がちにそう小さく呟いたが、その姿は三日月を失望させるどころか逆に庇護欲と征服欲を大いに搔き立てるだけだった。
(これで襲ってほしいと誘っている訳ではないのだから……性質が悪過ぎるぞ)
 純粋過ぎるのもこちらにとっては毒だな……と、理性を奮い立たせつつ、三日月は平静を装い答えた。
「責任を持って、俺が教えてやる……元より、俺以外の誰かに触れさせるつもりなどない」
「…………」
 何を言い募っても、その端から逃げ道が潰されていくのを目の当たりにして、面影は小さく嘆息する。
 因みにその逃げ道というのは自分の、ということではなく、三日月の逃げ道という意味だ。
 こんな面倒な臆病者の相手にならずに済む様に逃げ道を作ってあげているのに、向こうはそんな事などお構いなしに自らその道を閉ざし、自分の手を取ろうとしてくるのだから……
(ああ……本当に性格悪いな………嬉しいと思ってしまうなんて…)
 三日月の幸せを願うのなら、相手の望みに応じるのは間違いなのかもしれない。
 こんな寄る辺もない若造なんかより、もっとずっと相応しい人物がこの広い世界には居る筈なのだ。
 それなのに、こちらの我儘で相手の未来を歪めてしまうかもしれないのに、彼がその道を選ぼうとしている事を喜んでしまう自分がいる。
 面影が苦悩している間に、三日月はすっと彼の唇に手を滑らせ、親指で柔らかさを確かめる様になぞった。
「ほら………」
 その指の感触があまりに優しく、しかし逃さないという強引さも備えていたため、面影は逃げる事も出来ず更に迫って来る三日月に圧され、遂に白旗を振った。
「わ、分かった! 分かったから……っ!」
 強引に押される形にはなったが、決して妥協した訳ではないし、嫌だという訳でもない。
 三日月に惹かれ、好意を抱いているのは偽りない気持ちなのだ。
 相手が先に気持ちを伝えて来たのだから、今度はこちらの番なのだと察したものの、いざ言葉を紡ごうとしたところで面影は途端に口籠った。
 三日月は赦しを請うていたけれど、正直、彼に偉そうに赦しを与えるなど傲慢にも思えるし、けれど、ずっと沈黙を守る訳にもいかない。
 しかし、相手が望んでいるのなら……素直に言った方が、いいのか…?
 ああ、学のない己が恨めしい。もっと知識があればこの気持ちをより的確に表せる言葉で応えられたかもしれないのに。
「…ど、どう……言えば、いい…? ゆる、す……? それとも…」
 もっとはっきりと気持ちを伝える言葉……知っているけど……直接誰かに言うなんて経験などなかった。
 初めて誰かに伝える言葉はより小さい声になってしまったが、それでも最大限の勇気を持って、三日月と視線を合わせ………
「………す……好き、だ…と?」
「…っ!!」
 上目遣いに見上げて来る面影の表情………
 何と表現するべきなのか。
 目を奪い、逸らす事を許さない程に凶悪な愛らしさを……
「ああ……十分だ」
「っ!?」
 相手の言葉を最後まで聞いた時、既に面影の唇は柔らかなもので塞がれていた。
「ん……っ」
 近い……三日月の顔がこんなに近く……っ
(う、わ………こんなに近くても、き、綺麗…)
 向こうは瞳を閉じていたが、こちらはあまりにも急な事と驚きに、寧ろ目を見開いてしまった状態だった。
(肌、白い……睫毛も意外と長いし………)
 どきどきしている胸が煩い……
 これまでで一番間近で見る三日月の顔貌を意外と冷静に見ている自分を認識し……ふと些細な問題に気がつく。
(あ、あれ……これ、まずい、かも…?)
 息、が出来ない…?
 それは当然、三日月の唇によって己のそれを塞がれてしまっているからだ。
 それでも、少し考えたらその問題はあっさりと解決される筈だった。
 そう、口が駄目なら鼻による呼吸を行えば良いのだが、既に人生初のキスで頭が一杯いっぱいになってしまっている面影は、息苦しさによる動揺も相まって、そんな簡単な解答すら導き出せずにいたのだ。
 些細な問題であった筈が、どんどん面影の命に関わる重大ごとになっていく。
「~~~~っ!!~~っ!!」
 拙い、苦しい、死ぬ…!!
 こんな間抜けな死因があってたまるか…!!
 何とか…何とかこの状態から脱しなければ…!!
 その一念のみで、面影はどんどんと三日月の両肩近くを激しく叩き、そこでようやく彼から唇を離させる事に成功した。
「お……おい…っ!?」
 まさか三日月も、面影がこういう理由で窒息しかかっているとは考えられなかったらしく、慌ててぐったりと身体を反らしてしまった相手を支えて声を掛ける。
「し……死ぬかと思った………っ!」
 ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返し、酸素を補給しながら心からの思いを吐き出す面影の顔は酸欠で真っ赤になっている。
 ほんの数瞬前までの艶っぽい空気は完全に霧散してしまった。
 まだ完全に息が整っていない若者の姿を見つめていた三日月の口角が僅かに上がる。
(ああ……この男は……本当に…)
 キスのやり方一つ知らない、恋の手管も分からない程に純粋なのだ。
 そうだろうという認識はしていたが、こうして直に感じてしまうとどうしようもなく心が高揚してしまう。
 誰も触れていない、誰も穢していない、純粋無垢な男……俺に初めて唇を吸う事を赦してくれた愛しい男………
「ふ………」
 三日月の微かな笑み声が、自分の醜態を笑った様に聞こえたのか、面影が涙目のままにどんと一際強く相手の肩を叩いて非難した。
「わ、らうな……っ! は、はじめてなんだ……仕方ない、だろう…っ!!」
 酸欠の所為で赤かった顔が、改善している筈なのにより一層赤みを増しているのは、初体験を経た故の羞恥によるものだろうか?
 その初々しさがより一層愛おしく思え、三日月がきつく相手を抱き締める。
 もう、良いだろう?
 ずっとずっと言いたかった。
 お前が俺に唇を赦してくれたという事は…なぁ、そういう事だろう?
「ああ……ああ、そうだな……お前はまだ何も知らぬ………危なげで、愛らしくて、とても目が離せぬ」
「…!」
「だから、俺の傍にいてくれぬか? 家政夫としてではなく……俺の唯一の恋人として」
「!!!」
 本当は伴侶に、と言いたかった三日月だが、そこは耐えに耐えた。
 これまでの経験上、いきなり恋人の経過をすっ飛ばして伴侶に、などと迫ったら、面影がドン引くのは容易に想像出来る。
 まぁ、恋人という立場でも十分に面影に寄ってくる輩に牽制は出来るし、改めてそういう関係になった二人の時間を過ごすのも悪くない。
 そんな未来を掴むべく、三日月は絶対に逃さないとばかりに面影に迫った。
「こう見えて、俺は身持ちは固い男だぞ?」
「…わ、私だって……」
 そうだ、と言う前に恥ずかしさが勝ったのか、美しい若者は俯いて視線を脇に逸らす。代わりに
「……浮ついた気持ちで応えている訳じゃない、けど、本当に…面倒だと思う、ぞ……それでも、良いのなら…」
と改めて断りを入れてきた。
 自己肯定感が低いというのもあるかもしれないが、それとは別に三日月から落胆される事に恐怖を感じているのかもしれない。
 そんな事、ある訳がないだろう?
「それこそ、俺の歓びだ…」
「……っ!!」
 三日月が唇を相手のそれ…より下、頤に寄せた瞬間、びくっと面影の身体が戦慄き、それに応じる様に三日月の動きも止まる。
「……」
 無言で面影の様子を窺うと、身体を小刻みに震わせながら必死に目を固く閉じて何かに耐えている若者の姿があった。
(これは……駄目だな)
 これ以上の無理強いは、彼にとって恐怖や苦痛になってしまうかもしれない。
 正直、嫌がる相手でも自身の手管でその気にさせ、身も心も蕩けさせる自信はある。
 しかし、初めての口づけからその先まで一気に……と逸り過ぎるのも如何なものか。
 恋人になる言質は取れた、後はゆっくりと…二人の距離を縮めていき、身と心を重ねていけば良いだろう。
「今日は、ここまで、だ」
「……っ?」
「お前が心を決めるまではキス以上、手は出さんよ……約束しよう」
「う………」
 拍子抜け…とは思ったものの、正直、助かった、という気持ちが大きかった。
 何もかもが初心者の自分にとっては、ここでの三日月とのひと時の中の情報量が多過ぎた。
 もし、万一、ここでこのまま三日月から口づけから先の接触を求められていたら、本気で心臓が止まってしまっていたかもしれない。
 きっと三日月はそこまでを見越して、敢えて引いてくれたのだろう。
(……早速、大人の余裕というものを、見せつけられてしまった気がする………)
 ちょっぴり悔しい気もするけど、此処は素直に好意を受け取っておこう……
「わ……分かった」
「…………まぁ」
 す、と身体を離された事で、一気に場の緊張が緩んだ様な気がした中で、三日月が可笑しそうに笑みを含んだ声で言う。
「先ずは、キスの時は鼻で呼吸するのを覚える事だな」
「な……っ!」
「後は、がっちりと歯を食いしばるのも無しだ。追々、実践で教えてやるぞ?」
 くす、と笑みを深めつつ人差し指を口元に立てる仕草が余りに艶めいていて、どきりと面影の胸が強く脈打つ。
 されたばかりだというのに、またキスをしてほしいと心で願ってしまいそうになり、慌てて首を左右に振った。
「し、知らなかっただけだ…! すぐ……出来る様に、なる……と思う」
 断言するには自信が持てなかったのか、少々不安が残る返答だったが、それでも三日月には十分満足出来るものだったらしい。
 きっと、その実践とやらで、教え込むつもりなのだろう……
「期待しよう」
「~~~~っ」
 あっさりと返された返答に、最早返す言葉もなく面影は沈黙と言う形で降参の意を示す。
 やっぱり……敵わない。
「あの………そろそろ…今日は…」
「ん…ああ」
 その面影の一言で、二人の周りの世界が急に開けた気がした。
 流れ込むテレビの音声が二人の鼓膜を再び刺激し始める、見ていたドラマはもう佳境に差し掛かっているらしいが、最早、あらすじを追っていなかったのでちんぷんかんぷんだ。
 面影を押し倒している態勢だった三日月が、相手の言葉に素直に身体をどかし、立たせてやる。
「すまん」
「………謝らないでくれ」
「ん…?」
「……私も…嬉しかった…から…」
「………………」
 三分前の約束を、三日月は早くも後悔する羽目になった。
 ああもう、本当に、本当に、あんな約束するのではなかった!!!!!
 心の中に留めはしたものの、成層圏すら超えてしまいそうな程の声量で叫んでみる。
 あれが無ければ、このまま引き留めてベッドの中でどろどろにしてやっていただろうに…!
 しかし、約束は約束。
 必死に煩悩を抑え込みつつ、三日月は何食わぬ顔をして面影を玄関先まで見送ってやった。
「ではまた、明日…」
「あ、ああ……おやすみなさい」
 面影が玄関の扉を開けると同時に、三日月は相手のドアノブにかけたのとは別の腕を引いて振り向かせ…
 ちゅ……
「!」
 名残を惜しむ様に、優しく額にキスをした。
「分かっているとは思うが…」
 直ぐに唇を離し、にっと笑う男の瞳に妖艶な光が宿る。
「これからは、キスはお前が起きていても遠慮なくさせてもらうからな……恋人なのだから」
 瞳の光がより一層強まった気がして、面影は思わず少しだけ身体を仰け反らせた。
「す……っ」
 何をどう言うべきなのか頭の中は夏の台風状態になり、最終的に出た言葉は、
「少しは遠慮しろっ!!」
という、実に微妙な返答だった。
 それに対しての答えを待つことなく、面影はばたんっと勢いよくドアを閉めて三日月の生活圏内から離脱する。
 しんと静まり返った玄関内で、三日月はくっくっと含み笑いを漏らした。
「少しは……か……やはり可愛い奴だ」
 嫌だ、とか、駄目だ、とか、完全な拒絶を示していないのが、偽りない相手の心の内を示している。
 ではこちらも、少しだけ…ほんの少しだけ遠慮してやろうかな?
 そんな事を家の主が考えている一方で、暇を告げた若者は出て行ったばかりの玄関の扉に背を付け、はぁ~っと大きく溜息を漏らしていた。
(……もしかして…負け戦を…挑んでしまった、のか?)
 キス以上の事はしない、と約束してくれた……それは優しさだと思った。
 けれど、あの三日月の人差し指を立てた時の仕草と、先程の軽いキスで思い知った。
 あの美しい男なら、キスからですら相手を情欲に狂わせる事が出来るのではないか……?
 キスまでしかしない、と嘯きながら、そのキス一つで自分が求めるまでもなく、あちらから求める様に仕向ける事すら容易なのでは……?
 だとしたら、自分など……到底、太刀打ちできないのでは…?
「…まさか………まさか……それは、ない……はず」
 簡単には流されるものか…と心に固く誓いながらも、自信が持てない……
 自らの家の扉に向かいながら、明日以降の自分はどう三日月に振り回されてしまうのか……そして何より、いつか彼とより密に触れ合う時が来るのかと、面影は甘い不安に苛まれていた………


 その彼の一番の懸念は、それから遠くない未来、突然訪れた不幸な事故によって実現することになる………