その日はいつもの様に和やかな日和の一日だった。
同じくいつもの様に買い出しに出掛けている面影の姿がないリビングを軽く見回しながら、三日月はゆっくりとその場を所在なさげに歩き回っていた。
ちらっと壁掛け時計を確認し、小さく首を傾げながら眉を顰める。
「……? 遅いな」
この時間なら、普段ならもうとっくに戻って来ている筈なのに、まだ此処に面影の姿は見えない。
(…何かお買い得なものでも見つけたか…?)
帰宅時間が遅くなるのは珍しいとはいうものの、これまで全くなかった訳ではない。
『す、すまない! いつもより安かったからつい並んで、遅くなってしまった…!』
過去にも、面影がそう言いながら焦って帰って来たことがあった。
両手にぱんぱんに膨らんだ買い物袋を持っての帰宅が何より彼の言葉を裏付けていた。
三日月としては、面影が無事であることが最優先事項であったので、多少帰宅時間が遅れる事など何ということはない。
あと、蛇足ながら、彼が三日月以外の誰かに心を寄せる事がなければ、他の問題などどうでも良いとすら考えている。
ここまで拗らせていたら、一つ間違えば面影を部屋の中に監禁しかねない危うさを孕んでいる。
実際口には出さないが、三日月は幾度となくそれを実行に移そうかと考えていた過去があった。
例え面影に恨まれようと幻滅されようと、傍にいてくれさえしたらそれだけで良いと、狂気、いや凶気にも似た昏い願いを抱いていたこともあった。
それは今も完全に消えた訳ではない。
しかし、二人の関係が先日一歩前に進んだ事が、三日月の心に安穏をもたらしたのだ。
『好きだ』
面影からの告白…半ばこちらが迫って聞き出したものだが、それでも相手の気持ちを知りえたのは事実。
それから少しの間は、やはり己の心情の変化に戸惑いもあったのだろう。
面影の動作が少々ぎこちなくなり、三日月が近づくとびくりと小さく震える様が見られたのだが、それも徐々に雪が溶ける様に消えていった。
現在の二人は、世の人の言う『恋人同士』という関係性に限りなく近づいていっていると思う。
(……嬉しいは嬉しいのだが…)
ふむ、と一人で口元に手を当てながら考える。
あの日、二人の気持ちを確認し合った日に、ようやく三日月は面影の唇を塞ぎ、吸う事を赦された。
そして以降も、日々の生活の中で三日月は面影にキスを与えていた。
唇だけに限らず、額や手指、頬……あらゆる場所に。
事実、その行為も好きなのだが、三日月が一番気に入っているのは、その悪戯を施した後に相手が見せる表情だった。
『だっ、だから不意打ちはやめろと言っているだろう!?』
林檎の様に頬を赤らめ照れを隠す様に口元に手の甲を当て、動揺も露わに糾弾する姿は、とても本気で怒っている様には見えない。
故にこちらもついつい可愛さにつられて、続けて唇を寄せてしまうのだが……
(………そこから先の進展が、な…)
恋人同士となれば、身体を重ねる事も重要なコミュニケーションの筈だが、実は自分達はまだそれを経験していないのだ。
無論、三日月はすぐにでも面影を抱きたいと、愛したいと熱望しているのだが、肝心の面影がまだ覚悟が決まっていないのか、遠慮がちに拒絶しているのが現状。
そうなると、面影の事を愛しているからこそ力ずくで押さえつける事も出来ず、三日月は気長に相手がその気になるまで待つ事にしている。
(……今日の夜にでも、駄目元で迫ってみるか…?)
好い雰囲気に持ち込んだら、もしかしたら……と考えている内容とは裏腹に精悍な表情のままに考えていたところで、彼のポケットに入れていた携帯が振動した。
「?」
取り出して画面を確認すると、見慣れない番号の羅列。
一瞬、出ない事も考えたが、今は面影もいないしやる事もないので、ある意味暇潰しにはなるかと考えて応対する事にした。
「……はい」
『…こちら〇×警察署です』
しっかりはっきりと聞こえてきた、まだ若いだろう男性の声。
「?」
意外な返答が返って来て、知らず眉を顰める。
最近の自分は相変わらず外出など殆どしていないので、何かしら外で粗相をしたとは考えにくい…勿論、部屋での仕事の中でも、法に触れる行為は行った覚えはない。
(もしかして、面影が落とし物でもしてしまったか…?)
しかしそれなら直接彼の携帯に連絡が行く筈だが……ああ、もしや携帯を落としてしまって、俺を緊急連絡先に申請したのか…?
一瞬で色々な可能性を考えた三日月だったが、そんな彼の耳に、やや申し訳なさが滲んだ口調で向こうの若い男性の言葉が入って来た。
『面影さんという方はお知り合いでしょうか。交通事故に遭われて近くの病院に緊急搬送されました。財布の中に緊急の連絡先として貴方の携帯番号が…』
そこからの相手の言葉は何も覚えていない、何も。
気が付いた時には、三日月は面影が搬送されただろう病院の入り口に立っていた。
「正直、奇跡です」
病院に来た三日月は、受付で事の次第を話し、そこに待機していた警察官たちに声を掛けられて事故についての詳しい話を聞くことが出来た。
面影が今回事故に遭ったのは、完全に彼の落ち度ではなく、居眠り運転で歩道に乗り上げた大型トラックから子供を庇い、守ったというのが大体の経緯らしい。
面影の勇気の賜物か、庇われた子供は少しの掠り傷を負うだけで済み、今は母親に連れられて念のために診察と検査を受けているという。
運転手も先ずは検査を受けて、それから問題なければそのまま警察署に連行される運びだという。
面影の確かな状況を聞くまで、自身の心臓が動いているのかすら分からなかった三日月だったが、ようやく彼の意識が元来の清明とした状態に戻って来たのは、外科医から診察室で説明を始められた頃だった。
診察室だが、此処に当事者の面影はいない。
今はまだ、検査室などで全身の負傷の状態を確認している最中なのだという。
大丈夫…
面影は生きている……何処にも、行かない……
俺の手から逃げる様なことはない……
「私も長く、この手の怪我人を担当してきましたが、本当に稀有なケースです」
大型トラックと人間…単純に考えたら人間が敵う筈がない。
運が悪くなくても即死のケースだった、と相手は言っていたのだが、幾つかの幸運が面影を守ってくれたのだという。
一つは、その子供の身体が小さく、面影の動きを然程、妨げなかったこと。
一つは、面影が子供と共に撥ね飛ばされた際、『奇跡の様に』玄人の武術の達人よろしく見事な受け身を取り、致命的な衝撃を最小限に緩和させたこと。
一つは、撥ね飛ばされた先が街路樹の植えられていた場所で、低木が茂る中に放り込まれる形になり、そこでも地面への直撃が避けられたこと。
最後の一つは、彼が子供を庇いながら身体の前で交差させた両腕が体幹への車体の直撃を防ぎ、そこだけの負傷で済んだこと。
「……腕」
「ええ、両腕の骨に多少ヒビが入っておりまして、限りなく骨折に近い状態…不全骨折なのですが、かろうじて手術は必要ないでしょう。但し、車に接触した事は事実なので念の為に入院し、暫くは後遺症の出現について確認していきます。併せて腕のリハビリも行う必要があります。手術の必要性を見越していましたが、確実に不要と判断した時点で担当の科を外科から整形外科へと…」
「………」
ほ…っと、知らず、安堵の吐息が漏れる。
腕は骨折しているとはいえ、今後の生活に大きく影響を及ぼす程度ではないらしい。
後遺症の問題はまだ消えてはいないという事だが、それは入院して経過を見ていくことで迅速な対応が可能になるだろう。
(………今は…俺達も人間に過ぎないから、な……)
刀剣男士の時には、車に追突されるより遥かに危険な任務に就いていたが、あの頃とは大きく事情が異なる。
刀剣男士の時には、生きてさえいれば…折れてさえいなければ、手入れ部屋にさえ連れて行く事が出来れば、完全回復して再び戦地に赴く事が出来ていた。
腕がもがれても、足を斬り飛ばされてしまっても、生きてさえいたら、資材と引き換えに五体満足に回復する事が出来ていたのだ。
しかし、今はもうそれが出来ない。
自分も面影も…只の人間に過ぎないのだから。
だから、警察からの一報を聞いた時は、生きた心地がしなかった。
万一面影が命を失っていたら、三日月はこの世に全ての興味と執着を無くし、さっさと面影の後を追っていただろう。
「三日月…さん、でしたね、問題なければこのまま入院手続きを行いますが、宜しいでしょうか」
直接的に命に関わる疾患などでの手技を要していた場合には、その手技により長けた病院を世界中から探し出し、そこへ転院させていたかもしれない。
しかし、特に手術を行わず安静加療からのリハビリという事なら、今は此処での対応で様子を見ても良いだろう。
追々状況が変わっていけば、その時には自分が動けば良い。
三日月の判断は迅速だった。
「この病院で最も設備が整った個室をお願いしたい。彼の入院中は、俺が在室して介護しよう」
「う………」
「…! 面影!?」
トラックとの望まぬ邂逅の後、久し振りに面影が目を覚ましたのは、清潔なベッドの上だった。
「え…?」
ぱち、と面影の瞳が開かれ、彼は予想より早くしっかりと三日月の姿を捉えていた。
明らかになっている傷害が腕のみに留まり、他の場所は脳を含めて無事だった事に起因しているのかもしれない。
不安も露に覗き込んでくる三日月の背後に見えるのは遠い白の壁面……ああ、天井か。
という事は、今の自分は横になっているのか?
しかし…確か家にいる筈の三日月が何故……いや、そもそも此処は……?
自分は、何処にいるんだ…?
「……痛むか?」
「三日月……ここ、は…?」
そう尋ねながらも、面影は自力でも必死に己の記憶を掘り起こしていき、ここで目覚める前の行動について思い出していった。
既に施行されていた精密検査でも、脳に異常はなかったという結果をここでも裏付ける様に、彼はあの事故の瞬間を脳裏に投影する事に成功したらしい。
面白い様に顔色が蒼白になっていき、面影は目の前の男に身体を捩りながら上ずった声で訴えた。
何故、身体を起こす事が出来ないのか…そんな些細な変化に気付く程の余裕もないのか、自身の今の状態については意に介していないのが明らかだった。
「子供……っ……子供が…っ!! あの子……は……!?」
記憶が途切れる直前の記憶は、あの小さな身体を両腕で抱えて身体を丸め、迫って来る鉄の塊に相対しながら斜め後ろに跳躍した己の行動。
正直、もっと上手く立ち回れる選択肢もあったのかもしれないが、それでも歩道に避難しつつ衝撃を緩和させる選択が自分にとっての精一杯だったのだ。
子を守り切った事実を確認しないまま意識を失ってしまったので、あれからあの子がどうなったのかが分からない。
まさか、まさか……!
最悪の事態を想像して更に錯乱状態に陥りそうになった若者に、三日月は相手の両肩を軽く押さえながら頷いた。
「大丈夫だ。子は無事だ、今は母親と一緒にいる……今のお前より余程元気だぞ」
「………っ」
今の自分より…?
その言葉でようやく面影は今の自身の状態を確認するに至った。
「私………の……手……?」
動かない…と言うより、感覚が、ない……?
経験した事がない事実にようやく思い至り、はっとそちらへと視線を移す。
感覚はないが、腕は二本ともそこに存在していた…但し、そのどちらもが肘上から下を白い板状の物に固定され、包帯を巻かれ、可動域を著しく制限されている。
感覚が無いのは……神経がやられたのか麻酔などの影響か……?
「感覚が、ない………」
「麻酔だ。薬が抜ければ痛みが戻って来るだろう。あまり激しく動くな」
成程、起きた時からやけに身体の自由が利かないと思っていたが、固定具が原因だったのか。
支点となる腕が碌に動けなければ、この身を起こす事も儘ならない。
「骨折までには至らなかったが、両腕共に数カ所ヒビが入っているそうだ。回復までには多少の時間とリハビリが必要になるので、暫くお前にはここで入院してもらう」
「入院……!?」
痛みを感じていない事で、そこまでの大事になっているとは予想できなかったのか、面影は逼迫した声音で聞き返したが、三日月は珍しく反対を許さない厳しさをもって返す。
「今回ばかりは大人しく従ってもらわねばならん。お前の身体に関わる事なのだ、我儘は聞けぬ」
「でも…」
「面影…」
厳しい表情から一転、苦し気に三日月は面影の顔に己のそれを寄せ、諭すように言った。
「俺は今日、お前を俺の見ていない場所で永遠に失ったかと思ったのだぞ?」
「…………すまなかった」
自分が悪い事をしたとは思ってはいない、しかし、その行いが目の前の男を悲しませてしまったという事実も理解出来たのだろう。
三日月からの要請も至極真っ当な話である、負傷を負っている者は適切な処置を施され、管理されるべきなのだ。
今の自分は……その管理されるべき負傷者そのもの。
しかし………
「……ええと…こ、ここまで広い部屋じゃなくても…良い、のでは?」
身体の異変について納得した後には周囲の状況にも意識を向ける余裕が出てきたのか。
身体を動かせない代わりに目と首を動かして周囲の様子を伺った面影は、今二人が在室している部屋…病室の広さと設備に慄く様な表情を浮かべた。
普通のマンションのリビングぐらいの広さはある…自分の寝ているベッドから少し離れた場所には三人は腰かけられるソファー、その前には低い高さのダイニングテーブルが置かれている。
それらの反対側の壁には簡易ではあるがキッチンの様なシンクと一台のガスコンロ、収納棚。
キッチン周りだけを見ると、丁度ウィークリーマンションのその設備に似ているが、そもそも病室にそんなものが設置されている事が普通ではない。
しかも、寝ている面影からは見えなかったのだが、この部屋にはユニットバスも設置されているのだった。
面影は特に病弱ではないのでこれまで入院生活を送った事はないのだが、それでも病院の個室は別料金が課される事ぐらいは知っている。
しかも、こんな広さと設備が充実しているとなると…所謂、特別個室、特室と呼ばれる部類の可能性が高い。
無論、そんな特別な部屋なら、費用も決して安くはない訳で………
「ヒビ、という事なら別に相部屋でも良いだろう、ここまで立派な部屋じゃなくても…」
「傍にいる俺が落ち着かないのだ。幸い、今はこの部屋を希望しているのは俺だけだったらしいので、病院側も利益になるのだから迷惑は掛けていない。費用は俺が出しているから心配するな」
確かに、入院費用を考えるとこの部屋を長期で希望できる人間は限られるだろう……相変わらず金に糸目をつけない相手の判断に面影は困惑したが、すぐに別の問題にも気が付いた。
「……傍に…いる…って?」
普通、入院患者の付き添いとか家族は、洗濯物とか差し入れ等を持ってくる程度で長居はしない筈……勿論、見舞いもあるだろうが、重症でもないのにそこまで手間を取る必要もないだろう。
寧ろ、入院期間は家政夫としての仕事が出来なくなるのだから、こちらが迷惑料を支払う…いや、給金を返納しなければいけないのが道理……
「見舞いの時間は俺も此処にいる。担当の看護士?は居る様だが、医療的な面だけ任せ、他の看病は全て俺が引き受ける事にする」
「え…?」
見舞いを許されている時間、という事なら、ほぼ半日は此処に居る事になる。
まさか理解していない訳ではないだろうが、それでも面影は三日月に止める様に進言した。
「三日月は仕事もあるだろう? こんな場所に長居させるなんて…」
「俺の仕事はいつでも出来る。心配せずとも夜には家に戻る……残念だがそういう決まりだからな」
「でも…」
「俺がいなければ、何処の誰とも分からぬ者がお前の世話を焼くのだろう?」
「…………」
違います、という明らかな嘘をいう訳にはいかず、面影は沈黙する。
両腕が固定されて動けない以上、ほんの些細な動作でさえ儘ならない。
水を飲むにもコップを持てなければ話にならないし、食事についても言うに及ばず。
今の面影は身体の痒い場所一つにも、手を伸ばす事が出来ないのだ。
「恋人が他の誰かと余計な接触を持って、面白い訳がないだろう?」
「こい…っ」
事実を言われただけだが、まだそうなって日が浅いだけに軽く流す事も出来ず、若者は目に見えて狼狽える素振りを見せる。
動揺している相手の隙を突いて、三日月はそっとその唇を塞ぐ。
「!?」
ほんの少しの時間、唇同士を重ねただけの口づけだったが、場所が場所だけに面影は更に顔を赤くして唇が離されると直ぐに真っ赤になりながらも相手を糾弾した。
「こっ…ここっ……こんな場所で何を…っ!!」
不謹慎だ!と非難するも、向こうは軽く聞き流す様にぺろりと舌を出しながら笑う。
「…俺を不安にさせた罰だ」
非難しながらも軽く返され、その蠱惑的な笑みに心を奪われそうになった面影は咄嗟に視線を横へと逸らし……僅かに顔を歪めた。
(…痛……っ…)
今まで全く感じなかった両腕の痛覚が戻って来た様だ。
おそらく搬送後に処置をされた際に投入されていた麻酔薬が、前に三日月が言っていた通り、効能が切れてきたのだろう。
「痛むか?」
「少しだけ……でも我慢出来る範囲だ」
今は自制内かもしれないが、薬効が切れてきたら徐々に痛みも増してくる事は容易に想像できる。
「薬が切れたのだ、酷くなる前に追加してもらわねばな…」
言いながら、三日月の腕はベッド脇に備え付けられていたナースコールのボタンを躊躇いなく押した。
『はい?』
「痛みが酷くなったらしいのだが…」
『伺います』
余計な会話を極力省いた対応は、流石にベテランといったところか。
通信が切れた後、三日月はちらりと腕時計で時間を確認する。
外ももうすっかり暗くなり、時間も丁度良い…と言うべきか見舞いの刻限に近づいていた。
「…食事はどうする?」
「…食べたくない……今は…眠りたい」
「……そうか、そうだな」
正直、ずっと付いていてやりたい気持ちはあるが、今日は面影もかなり疲弊している事だろうし、追加で鎮痛剤等を投与されたら再び眠りに就く事だろう。
貴重な睡眠の邪魔をするべきではない……
「…では…薬が来たら、俺も帰ろう」
「………そう、か」
ほんの少しの寂しさを胸に感じて俯いた面影は、それでも感情の起伏を押し隠して頷いた。
おかしなものだと思う。
さっきまでは三日月が留まる事を諫めようとしていたのに、いざ彼がここを立ち去ると思えば引き留めたくなるなんて。
「…寂しいか?」
胸の内を見透かされた様な台詞が降ってきて、見上げてみればいつもの優しい笑みを浮かべた男が悠然と立っていた。
皮肉る様な笑みを見せられていたらやせ我慢の言葉の一つも返していたかもしれないが、三日月の瞳の中に己と同じく哀惜の色を見つけてしまってはそれも叶わなくなってしまった。
それでも完全に同意するのはあまりにもこちらの弱さを曝け出す様で憚られてしまったので、
「……ち…ちょっと、だけ…?」
と、よく分からない遠慮を含めて答えたのだが……
「…………」
何故か、三日月はふいっと顔を背け、手を口元に持って行ったまま暫し何も語らなかった。
それからぼそぼそと
「…可愛い………無防備過ぎる……」
と呟いていたが、その内容までは面影には届いてはいなかった。
「え……?」
「……何でもない」
三日月の顔が心なしか赤かった気がしたが、動けない以上確かめる事は出来なかった。
彼が返事を返したのととほぼ同時に看護士と医師らしき白衣を纏った男性が入室してくる。
そこからは事務的というか、形式的な時間が続いた。
痛みの程度とか性状とか、空腹の具合とか……明日以降の予定とか諸々。
無機質な時間ではあったが、こういう身体の時にはその方が有難い。
最低限の話さえ終われば、そこで会話も終わりなのだ、余計な気を回さなくて済む。
痛みについて聞いた後は、医師に付いていた看護士が腕と繋がっている点滴のボトル内に別の薬液を注入し始める。
そしてここが、三日月がこの部屋に留まれる期限でもあった。
「ご身内の方も、そろそろお帰りを…」
控え目に退出を促す言葉を掛けられた三日月は、すっと面影へと視線を向け、それに応じる様に若者はこく、と頷いた。
「では、また明日」
病院内では医療従事者の指示は原則的に遵守しなければならない。
無論、三日月もそれは重々理解しているので、素直にそれに従う様に扉へと向かった。
「おやすみ」
面影の別れの挨拶に笑みを返し、三日月は静かに扉の向こうへと消えて行った。
そして病室内には、人が居るのに会話が無いという奇妙な空気が流れる。
(……おかしな感じだ…懐かしい様な……)
三日月がいなくなり、途端にこの部屋の中から親密な会話が払拭されたのを面影が認識する。
しかし昔の…三日月に出会う前の自分は、ずっと誰に対してもそうだった。
心の内に誰かを入れる必要も無かったし、一人の方が気楽だった。
誰かの都合を考慮し、それに合わせて動くなんて面倒でしかなかった。
なのに、今のこの沈黙の裏で密かに『三日月ともっと話したかった』と思っている。
いつの間にか、三日月限定とはいえ随分と変わってしまったものだ。
(帰ってから……大丈夫、かな、三日月……)
料理とか掃除とかを一手に担っていた自分が居なくなる事になるのだ、入院期間中、果たして彼は人間的な生活を送れるのだろうか………昼間は此処にいると宣言されたから過度の心配は不要だろうけれど……
(ま、まぁ………退院後は、大掃除を覚悟しておこう…)
自分と出会う前には企業のハウスキーパーを呼んでいたらしいが、此度の事で彼がどう動くかは分からないし、こちらが口を出す権利もないだろうし……
(……早く……帰ってやらないと、な………)
薬が効いてきたのか、既に瞼が重くなってきた。
夕食は不要だと答えたばかりだし、今日はこのまま睡眠を取らせようということなのだろう。
どんな場合であれ、睡眠は身体の回復に重要だ。
拒む理由もなく、それから面影はとろとろと微睡み、そしてゆっくりと深い眠りへと落ちていった………