その日、昼の隙間時間に自室に籠っていた面影は、意外な作業に苦戦していた。
「……考えていたより難しいな」
首を傾げて、右手に握られている物に視線を向ける。
それは何の変哲もない目薬だったが、それこそが今の面影を苦戦させている元凶だった。
事の発端はほんの少し前に長谷部の部屋に立ち寄った時。
相変わらずその有能さが仇となっている様な形で書類作業に明け暮れていた相手が、丁度目薬を差していたところに居合わせた面影は、その小道具に興味を示したのだ。
「まぁ気休めかもしれんが、一時的な気分転換にはなるぞ。眠気覚ましにもな」
丁度余っているのがあるから、と長谷部から同じものの新品を一つ譲り受けた面影は、丁寧に礼を述べた後に早速自室に向かって使い心地を試そうとしたのだった。
ところが……
(どうして当たらないんだろう…)
今の彼は私室に据え置かれている書机の前に座している状態。
首を傾げて手にした目薬の容器を凝視している面影のその顔には、幾筋かの薬液が流れた跡が残されている。
勿論、眼球に点そうと狙った末の、残念な成果だった。
(長谷部はあんなに簡単に点していたのに……凄いな)
それはあの刀剣男子の悲しい性による、無駄に磨かれた技である。
先ずはその目薬を手にしている手を顔に近付けるところから始めてはどうだろう…と忠告してくれる者は生憎此処にはいなかった。
(誰かに教示を願うか…いや、しかしこの様な雑務にも当たらない事で手を煩わせる訳にもいかない、か……)
この本丸に来てから、自分は随分と他人を頼る様になってしまった気がする。
本丸に来る前は元々単独活動をしており、その頃は他人を頼るなどあり得ない話だったのだから当然と言えば当然であるが、生真面目な若者はどうにもそれを『甘え』と捉えてしまう傾向にあった。
周りの男達はそうではないと幾度も諭したりもしているし、彼本人も改めようとはしているらしいのだが、悲しいかな、実直な性格故に一朝一夕で改められるものではなかった。
「もう一度……」
こうなっては意地なのだろう。
せめてひと点し…と懲りずに再挑戦しようと再度目薬を構えかけたその時……
『面影? いるか?』
「っ!」
私室と廊下を繋ぐ障子の向こうから、穏やかで柔らかい声が聞こえてきた。
とても優しい声音だったにも関わらず、それを聞いた面影はびくっと一気に全身を強張らせた。
「…っ……三日月…?」
この本丸の全刀剣男士を束ねる立場でもあり、審神者の近侍も務めている三日月宗近。
常に穏やかで落ち着いた雰囲気の彼は、その流麗な立ち居振る舞いからは想像も出来ないほどに腕の立つ刀剣男子であった。
周りにも分け隔て無く優しく、近侍としての責を負っている彼は当然乍ら他の男士達の信頼も篤かったのだが、面影は正直、この三日月という男が少々苦手だった。
『苦手』と言っても、悪い意味では無い。
彼は新参者だという事からか、本丸に来た時から自分の事を非常に気に掛けてくれ、何気ないところでも常に心配りをしてくれる。
それは別に恩着せがましい訳では無く、余計な世話という程に露骨なものでもない。
そもそも露骨なものだったら他の男士達からも何かしら指摘があるだろうが、特にこれまでそういう事はなかったと面影は記憶している。
そんなさり気ない優しさのせいだろうか……
最近は、三日月の声を聞くだけで身体の緊張が無条件で緩んでしまう気がするのだ。
例えたら、凍った世界から一歩踏み出せば、その場は温かな陽の差す野原だったという様な……そんな感覚。
それは『心を許す』という行為なのかもしれない…が、面影にとっては初めて経験する事であり、そんな慣れない感覚に戸惑いを覚えてしまうのだ。
だから、『苦手』だった…三日月には申し訳ないとしか言い様がないのだが。
勿論、三日月には何ら非のない事なのでそれを責める訳にはいかず、かと言って拒む訳にもいかない。
だから、面影は普段と同じ様に対応するしかなかった。
手にしていた目薬の瓶に蓋をして傍の書机の上の小物入れにしまい込みながら、返事を返す。
「あ、ああ……此処にいる」
『おお、良かった。少々確認したい事があってな、入っても良いだろうか?』
「勿論、構わない」
いつもの様に答えたつもりだったが、緊張が声に出ていなかっただろうか…と内心心配しながら、面影は相手が障子を開く様子を見ていた。
しゅ…と心地良い音と共に障子が開かれ、部屋に踏み込んでくる人物の姿を認める。
瞳に鮮やかな蒼が映る…心が何故か安らぐ。
「……三日月」
心の安らぎにつられてつい相手の名前を呼んで、瞬間、失敗したと後悔する。
いきなり出会い頭に名前を呼ぶなんて、礼を失してしまったのではないか……先ずやるべきは挨拶だろう。
「あ……っ」
やってしまった…と思わず顔を少しだけ俯けて、動悸を抑えながらどう言葉を継ぐべきか悩む。
「………あの…」
どうしようと思いながら、何も言わない三日月に改めて顔を上げた瞬間、
「…っ!!」
くっと喉が閉まる様な感覚を覚え、身が硬直するのを感じた。
(え………?)
それは間違いなく、『恐怖』という感情…それに反応する身体の変化。
『三日月?』と声を掛けたいのに、出来なかった。
声どころか、息一つすら相手を刺激するのではないかという本能の警鐘で息が詰まり、僅かな筋肉の動きすら敵対行為と見做されたらこの身は終わるという…絶対的な力を前にした『恐怖』。
目の前に立つ男は見た目はまるで変わらず美しいままなのに、その顔からは一切の表情が抜け落ち、誰をも惹き付ける打除けが刻まれた瞳は冴え冴えとした輝きを宿していた。
「………っ」
何がそんなに相手の逆鱗に触れたのか分からなかった面影は当惑するしかない。
もしかして…もしかして、自分の様な新参者が、挨拶もせずに相手の名前を不躾に呼んでしまった事がいけなかったのだろうか……
自分勝手な想像に自分勝手に傷付きそうになったが、よく考えなくてもそんな筈は無い……三日月はその程度で怒りを露わにする様な狭量な男ではない……ならば、何故……?
脳内でぐるぐると取り留めもない事を悩んでいる間に、三日月がずいと無言のままこちらの直前まで迫り、自らもその場に膝をつき、ぐいっと面影の両肩をきつく掴んできた。
「……っ!?」
「……誰だ?」
この者は、言葉すら刃に換える事が出来るのだろうか、と思うほどに冷えたそれを聞いて面影は更に言葉に詰まった。
それでも何とか声を絞り出し、
「…え…?」
と、それだけを口に出すと、向こうは更に強く肩を掴みながら問い詰めてくる。
「…お前を泣かせたのは誰だ……近侍としても俺が直々に話さねばなるまい」
「な…かせ…?」
一体彼は何を言っているのか…と、面影は首を傾げて取り敢えず相手の言葉を否定する。
「…私は……泣いてなど、いない…」
「…………」
面影の真意を図りかねているのか、三日月も困惑の表情で右手を肩から離すと、そのまま相手の左頬にそっとその指先を当ててなぞった。
「…っ」
数瞬前までは恐怖を感じていた相手の指先が余りにも温かく、優しく、背筋を何かが走り抜ける。
つい先程まで感じていた恐怖とはまた別の……しかし、形容し難い感情が胸を満たしていく。
「これは……涙、ではないのか…?」
「!?……あ、ああ……」
相手の静かな指摘を受けて、ここでようやく面影は相手が何故そこまで動揺しているのかを知った。
成程、おそらくは自分の頬に残っている薬液が流れた跡を認めて、それが涙であると誤解してしまったらしい。
(まぁ……確かに普通は目薬の失敗の跡だとは…思わない、だろうな…)
その事実が尚更自分の不器用の事実を突きつけられている様で、内心ちょっと傷つきながらも、面影はさてどうしよう…と考える。
本当の理由を説明するのは簡単だし、それで誤解を解くのはすぐに済むのだろうが……
(………恥ずかしい、な…)
変な見栄など何の価値もないのは分かっているが、それでも、この男には自分の悪い面は極力見せたくないと思ってしまった。
なので、ここは上手く穏便に誤魔化そうと、面影は言葉を濁してやり過ごそうと試みた。
「その…大した事ではないので、お前がそんなに気に病む必要はない。問題、はすぐに解決するだろうから、私などの為に動いてもらう訳にはいかない」
そう、自分が最終的に目薬を点せる様になれば解決する問題なのだから、嘘は言っていない。
「………そう、か」
面影の態度で、彼がそう簡単に真実を話すつもりはないと三日月も察したのだろう。
す、と肩から手を放し、彼は素直に立ち上がってすぅ、と先程自分が通ってきた入口に向かった、
良かった、上手く誤魔化せた…と安堵していた面影だったが………
「…お前が言うつもりがないのなら仕方ない、他の者達を一人ずつ締め上げ…いや、話し合うしかないか…」
相手の不穏極まりない呟きに敢え無く陥落。
「すまない!! 私が悪かった! 全部話すからその怖い言い直しは止めてくれ!!」
流石に自身の不器用さを、本丸の刀剣男士達の安全と秤にかける訳にはいかない。
勿論、三日月が本心でそう言った訳ではないだろう…が、それでも万が一という事もある。
その万が一で一つの本丸を壊滅させる訳にはいかないだろう。
「そうかそうか、それなら腹を割って話そうか」
面影の反応を既に予測していた様に、くるっと三日月が振り返って再び相手の前に座する。
結局、自分の浅知恵など、相手の掌の上で上手く転がされるだけなのだ…
正直『こんちくしょう』という気持ちではあったが、さぁ、と促してくる三日月に再び注意を向けさせられた。
さて、いよいよ本当の理由を話そうとなると、今更ながらに恥ずかしさが面影を襲ってくる。
まさかこんな理由で涙を零していると勘違いされてしまうとは………
「……その……絶対に、笑わないか?」
「? 俺はそのつもりは全くないが」
そんな三日月の何気ない言葉の中にも真摯な思いを感じられ、小さく息を吐き出すと、面影は手を伸ばし、先程小物入れに入れたばかりの目薬を取り出した。
「………」
「ん?」
無言でそれを差し出してきた相手の行動に、三日月は思わず反射的に手を差し出し受け取った後、しげしげとそれを見つめた。
「んん……?」
不思議そうに唸る相手に、微かに頬を赤くしながら面影は説明する。
「……目薬を点そうとしたのだが、なかなか上手くいかなくて外してばかりで……」
「………」
暫しの沈黙の時間が流れ……
「……ふ」
目薬を眺めながら、三日月の唇が柔らかく弧を描いた。
「…っ! わ、笑わないと…!」
『言っただろう!?』と続けようとしたところで、面影は突然三日月にぎゅうと抱き締められて声を失う。
「………!?」
「お前は本当に可愛いな」
「!?!?!?」
唐突な相手の感想と行動に、微かな赤みが差していた面影の顔が今度こそ夕陽のように真っ赤に染まった。
「あ……の……っ」
ぱくぱくと陸に打ち上げられた魚のように口を開閉させているだけの面影に、安堵したような三日月の呟きが聞こえてくる。
「良かった………俺は、お前が心痛めているのかと…」
「~~~~」
暖かい……心地良すぎて、どうにかなってしまいそうだ……
その感覚に流されそうになりながらも、必死にその流れに抗う様に面影はぐいと両手で相手の胸を押して距離を取った。
「その……だい、じょうぶだから」
「……ああ、すまん」
ほんの少しだけ、離れようとした相手を引き留めようと力を込めかけて、三日月はすぐにそれを解いた。
相手を解放する腕はとてもゆっくりで名残惜しそうに見えたが、それでも三日月の表情はいつもと変わることはなかった。
「どうも最近心配性になってな………新たな刀剣男士を迎えるのが久し振りだったからかもしれん。いや、驚かせてすまんな」
「そうか……確かに新入りだから、まだ危なっかしいところがあるのだろうな。世話をかけてすまない」
成程、自分が新しい刀剣男士だからここまで心を向けてくれているのだ。
それは、自分が自分でなくても……『面影』でなくても……
「………」
何故か、胸の奥に小さな痛みが生まれた気がしたが、それは気のせいだと自分に言い聞かせた。
何とか他の事に気を逸らせて、ついでに話題も逸らせようとしたところで、面影は手に握っていた目薬に目を留めた。
「……目薬というのは、難しいのだな。なかなか上手く当たらなくて…」
それは誤魔化しではなく本心からの感想であり、面影は再度まじまじと目薬を見つめた。
「長谷部はあんなに易々と点していたのにな……見るだけなら簡単に見えるのに…」
「ああ、うん………まぁ、あやつは……良くも悪くも『達人』だからなぁ」
何故か三日月の目が遠くを見つめていたが、その真意は純粋な面影にはまだ分からない。
そんな面影に視線を戻した三日月は、ふと、何かを思いついた様にうんと軽く頷いた。
「面影、良ければ俺が点してやろう」
「は?」
面影が戸惑っている間に、三日月はすいっと流れるような動きで自然に相手の手から目薬を取り上げると、そのままその場で居住まいを正す。
そして、楽しそうに面影を見詰めながらぽんぽんと自分の膝を叩く。
「そら、遠慮するな。最初から上手くはいかんだろうから、俺が手伝ってやる」
「え……」
「頭を乗せろ、目薬を点すということは相応に疲れているのだろう? 楽にするといいい」
「いや! そ、それは……」
「うん?」
断られることなど微塵も考えていない爽やかな笑顔……は、この男にとっては武器の一つなのかもしれない。
他の刀剣男士はともかくとして、日常生活の中では純粋培養に近い面影がそんな武器に果敢に立ち向かえる筈もなかった。
「………………」
三日月と視線を交わした僅かな時間の間に面影は色々と…色々と考えた。
もし自分がここで相手の好意を断れば…相手の自尊心を傷つけることにならないか、機嫌を損ねてしまうことにならないか、悲しんだりしないか……
ぐるぐると脳内でそんな思考が巡り……
結局、面影は白旗を挙げた。
「…分かった…では、頼む」
「うんうん」
申し出を受けてくれた事で一層嬉しそうな笑みを浮かべる三日月が、やたら眩しい気がする。
動悸が激しくなりそうな予感を覚えて、早々に済ませてもらおうと面影は思い切りよく横になり、遠慮がちに頭を相手の膝の上に乗せた。
さわり………
「…っ!」
相手を見上げる形になった面影の前髪を、優しく三日月の手が搔き上げる。
その感覚を感じると同時に、上から覗き込んでくる三日月の顔がいつもより近く感じてしまい、横になっている身体がびく、と強く緊張した。
(ち、近い…!!)
「はは、そう緊張するな。別にとって食う訳ではないぞ」
「いや……」
そういう意味での緊張ではないのだが…と内心で言い訳しながら、知らず拳を握る。
覗き込んでくる三日月の顔は、影が射しているにも関わらず眩しい程に美しかった。
見惚れてしまう面影の胸の内を知ってか知らずか、三日月は柔らかに目元を緩めて若者に告げる。
「ほら、点すぞ。少々沁みるかもしれん」
「あ、ああ………」
相手の目薬を握った手が、先端をこちらに向けながら近づいて来る。
自分が点そうとしていた時よりかなり近いそれを見て、面影は今更自分のやり方が姿勢から間違っていた事を知った。
そうか、もっと手を、目薬を顔に近付ければ良かったのか……
納得していたところで、薬液がぴちょんと一粒、垂直に面影の澄んだ瞳に落ちていき、その表面に拡がっていった。
「う……」
確かに、清涼感と同時に薬効成分が眼球を刺激しているのか、冷えた感じを覚えて面影が小さく声を漏らすと同時に、反射的に涙液が溢れて目尻を伝っていく。
「ああ、やはり沁みるか? すまんな、すぐにもう片方も済ませよう」
申し訳なさそうにそう言いながらも、三日月は手早く別の目への点眼も済ませてくれた。
結果、両眼に心地よい清涼感を残しながら、面影はゆっくりと三日月の膝から離れて上体を起こす。
頭に微かに感じていた三日月の膝の感触と熱が離れていくのを名残惜しいと思いつつ、若者はくるりと相手へと振り向きつつ礼を述べた。
「有難う、三日月……少々沁みるが、これは心地良いな」
「………………」
ぽろぽろと涙を溢しながら儚げに微笑む男の姿に月の名を戴く付喪神が密かに息を呑む。
瞳から零れ落ちる涙の輝きは金剛石の如く煌めき、その宝玉を瞳から生み出す奇跡の御伽噺に当の若者はまるで気がついていない。
この瞬間の彼の姿を永遠に留めておきたい。
そして、その姿は自分以外の誰にも見せたくない。
隠したい
心の内から湧き上がる激しい感情に伴い、神域を展開しそうになってしまった三日月は、すんでのところでそれを抑えた。
「…三日月、どうした?」
「ん、ああ……」
こちらを凝視したまま固まっている相手の様子を怪訝に思ったのか、面影が目元を拭いながら声を掛けると、相手は咄嗟に袂に手を入れながら断った。
「いや、何でもない。それよりこれを使え」
「?」
三日月が取り出したのは懐紙の入った帛紗だった。
そこから器用に一枚を取り出し、面影に手渡す。
それをどう使うべきか…言われるまでもなく察した面影は、礼を言いながら涙に濡れた自身の頬にそれを押し当て薬液と涙液が混じったものを吸い取った。
「お前は………」
「?」
「……これからは俺が目薬を点してやろう。遠慮なく声を掛けるがいい」
「は? いや、まさかそこまでしてもらうのは…」
申し訳ない、と続けようとしたのを、三日月が手を前に出す形で止める。
「最初に勘違いした俺が言うのも何だが、泣いていると勘違いされるのも不本意だろう。俺ならもう気兼ねする必要もあるまい」
「いや………」
言い募ろうとしている面影のそれ以上の遠慮を封じる様に、三日月は手にしたままの目薬に敢えて視線を移してそちらに話題をすり替えてしまった。
「……確かに長谷部がよく点しているのを見るが、自分で試したことはなかったな」
ふむ、と一度頷くと、三日月は目薬を面影に返すべく差し出しながら………
「点してくれ」
と、あっさりと頼んだ。
「……は?」
「俺も点すのは初めてだから上手く出来るか分からん。ついでだから、じじいの世話を頼むぞ」
「…………わかった」
何がどうしてこうなった?
わかったと言いながらも依然困惑の渦中にあった面影だったが、三日月ののんびりとしていながらも断る事を許さない圧に押され、あれよあれよという間にその場に座り直す形で相手の頭を膝上に迎える事になってしまった。
「はは、膝枕をされるのはなかなか良いものだな」
「……私の膝など、別に面白いものでもないだろう?」
少々下世話な比較になるかもしれないが、柔らかな女体ならいざ知らず自分は戦闘に特化した存在の刀剣男士だ、筋張った大腿の感触など心地よいものとは言えないだろうと面影は眉を顰めて応えたが、三日月はすりっと頬を相手の腿に擦り付けて幸せそうに笑う。
「そんな事はないぞ。こうしていると、じじいは大事にされていると感じられるからな」
「……三日月は、甘えるのが上手いな」
頬を擦り付けられた動揺を必死に隠しつつ、面影は誤魔化す様に受け取った目薬を掲げた。
頼むから落ち着いてくれ…と心臓に願いつつも、相手を上から見下ろしたところで、それは暫くは無理だと直ぐに悟る。
自身の膝に何の疑いもなく頭を預け、身体も投げ出してこちらを見上げてくる三日月の様相は、直視するには刺激が強過ぎた。
膝の上に頭を乗せた拍子に軽く拡がった彼の艶やかな黒髪と、打ち除けを顕わした鮮やかな瞳の放つ輝きは、控え目でありながら面影の視線を引き寄せ離そうとしない。
「では……点すぞ?」
思わず目を閉じてくれる様に願いそうになったが、当然それでは目薬を点す事は出来ないので、面影は極力急いで相手に目薬を点してこの状況から脱しようと試みた。
正直、この姿勢を続ける程に己の理性というか思考がどうなるか分からなかった。
「うむ、頼む」
こちらの動悸を悟られない内に、と、手早く、しかし慎重に、面影は相手の双眸に一滴ずつ目薬を滴下させた。
「ほぉ」
沁みている筈なのに、それすらも面白いと感じているかの様に男が声を漏らす。
「…沁みないか?」
「いや、然程ではない。おお、すーっとするな」
答えながら身を起こしたところで、三日月がああと何かに気付いた様に声を出した。
「いかんいかん、薬が零れてしまったな、はは」
「!!」
振り返りながら笑う男の偽りの泣き顔に、今度は面影が胸を衝かれる番だった。
(………ああ…駄目だ)
この男は……この男だけは………泣かせてはならない存在だ……
千年生きる付喪神たるこの男が泣く様を見せられては、心が動かぬ者が在るだろうか…
人であれ、神であれ、物の怪であってさえ、その涙を止めたいと願わずにはいられないのではないか…そして同時に、その泣き顔を独占したくなるのではないだろうか…
泣くのならば、せめて自分の前でだけで…他の何者にも見られる事が無い様に、と。
正に今、自分がそう感じている様に……
「三日月……も…」
「ん?」
「…目薬を点す時は…私を呼んでくれ」
気付いた時にはそんな事を申し出ていた。
は、と我に返って三日月の方へと視線を向けると、向こうは少しだけ意外そうな顔をしてこちらを見返してきていたが、すぐにその表情が柔らかな笑みへと変わり深く頷いてくれた。
「ああ、ではこれからはお互いに、な」
「…ああ」
その日以降、たまに本丸の一室で、目薬を点し合っている二人を見る様になったという。
それは面影が自身で問題なく目薬を点せるようになってからも続いていたらしい。
ある時には、互いの顔が触れ合う程に近い事もあったのだというが、さて………?