「ちょっと……早く着き過ぎたか…」
思わずそんな一言が漏れてしまった。
左腕の腕時計を眺めてから、面影はふぅと溜息を吐き出した。
三日月宗近との待ち合わせまで、まだ一時間近いゆとりがある。
事の発端は些細なこと。
『明日は俺も外に出る用事がある。折角なら何処かで待ち合わせて外で何か食べないか? ついでに色々と観て回ろう』
普段は外に出ない男だが、完全に引き籠りの生活は流石に難しいらしく、たまにこうして外に出る事もある。
帰りが遅い場合には自分が手料理を準備して部屋で待つパターンなのだが、今回は午後には全ての用事が済むだろうという事で、三日月から面影へそんな案が出されたのが数日前の話。
その時、面影はすぐに自身の予定を脳内で反芻し、言われた時間帯は予定も特になかったので素直に頷いた。
『私は問題ないが……三日月は早く帰って休みたいのではないか?』
確かそんな事を確認した様な気がする。
三日月は速攻で首をぶんぶんと横に振って否定してきた気がする。
『いや、俺はお前と共に居られるなら何処にいても同じ様なものだ。部屋にばかり閉じ込めているのも悪いしな』
三日月なりの優しさなのだろう誘いに、面影はほんの少しだけ目を伏せ、はにかむ様に笑う。
『…有難う、楽しみにしている』
『………』
そこで三日月がふいっと横を向き、手を口元に当てる形で顔を隠す。
『三日月?』
『うん…何でもない』
何でもない訳ではないのだろうが、聞いてはいけない気もして、そこは面影が素直に引き下がった。
(………可愛い)
当日は何処に行こうか…と早速考えを巡らせ始めている面影を他所に、三日月は荒ぶる心を抑えつけるのに必死だった。
(惚れた弱みとは言え………毎度こうだと俺の心の臓がもたんな)
こうして毎度毎度動悸を感じてしまうのには、相手の立場にまだ「危うさ」があるからでもある。
今の面影は自分が雇っている家政夫の立場であるが、それ以上ではない。
だから、現時点では面影を既に好いている自分以外の何者かが、彼の隣に立つ可能性もゼロではないのだ。
そんなことを許すつもりはないが、それでもゼロとは言い切れないのだ。
偶にそれがこれ以上ない程に腹立たしい事に感じてしまう事がある。
深夜、ふと目を覚ました時にそんな焦燥感に苛まれ、面影の部屋の扉を叩きに行こうとした事も一度だけではない。
自分としてはすぐにでも彼を恋人に、いや、人生の伴侶にして生涯傍に置きたい気は満々なのだが、残念ながら世の中には段取りというものがある。
自分勝手に事を進めようとしても、それは往々にして自壊するか潰される運命にあるのが定石なのだ。
他のどうでも良い案件ならばいざ知らず、愛しい男との関連性に関わる事である以上は万全を期したい。
だから、我慢している……ひたすらに。
(肌を重ねるまでにはいかずとも、せめて口吸い……キスぐらいは……いや、しかしそもそも俺達はまだ恋人でもなくて……)
遠慮と短慮の狭間を幾度も行き来する情緒。
『三日月、待ち合わせ場所を決めておかないか?』
その波打つ情緒を鎮めたのは皮肉にも、優しく声を掛けてくれた『原因』でもある自身であったとは、面影は知る由もなかった………
そして今……当日に至る
(何故だろう、三日月との待ち合わせだと思うと気が逸ってしまった………近くに店でもあればそこで時間潰しでも…)
離れた此処からでも、待ち合わせに決めていたカフェの様子が見て取れる。
今日の様に晴天だった場合にはこの店のオープンテラスで、雨天だった場合には屋内で、と決めていた。
(それとも先に場所を取って三日月を待つのも良いかも……)
そうした方が彼を余計に疲れさせずに済むかも…と考え直して、再度カフェの方へと視線を向けたところで、面影の双眸がぱち…と大きく見開かれる。
(あれ……三日月?)
見えているのは或る男性が椅子に座っている後姿だったが、彼が三日月であると面影はすぐに分かった。
艶やかに陽光を弾く蒼の混じった不思議な闇色の髪、ほっそりとした体格だが、それは虚弱な訳ではなく無駄なものが一切ない理想的な身体、四肢は長く服から覗くその肌は男性とは思えない程に白い。
その身を包んでいるのはカジュアルな服装なのだが、軽く見遣るだけでもそれなりの品質のものだと分かる。
これまでの付き合いの中で三日月は身の回りの事に無頓着である事は分かってはいるのだが、それなのに彼が選ぶものはその場凌ぎの安価なものではなく相応のレベルのものばかり…だけれど、その品に負けてるところは一度も見た事がない。
あの滲み出るオーラは生まれつき高貴な生まれなのかもしれない……聞いた事はないから詳しい生い立ちなど知らないけれど。
後姿だけでもその美しさを露わに出来る人間など、そう居るものではないだろう。
腰掛けた彼の前に鎮座している木造りのテーブル上には読んでいた本が見開かれた状態のままで置かれていて、隣には白い磁器のコーヒーカップ。
(うん、三日月……だな)
まさか自分より早く来ている事はないだろうと高を括っていたのだが、改めて目を眇めて繰り返し確認するが間違いない。
彼ももう来ていたのか……前の用事が思ったより早く終わったのか……
早めに会える事になりそうで、少なからず心が沸き立つ感覚を覚えながら歩を相手へと進めていく。
が、それは途中で止められる事になった。
「あ」
思わず口から声が漏れたが、それはささやかなものだったので相手に聞かれる事はなかった。
三日月の傍に数人の女性達が寄って行っているのが見えたのだ。
(……やっぱりモテるんだろうな)
まるで美しい花に誘われた蝶の様に、三人の女性が三日月の傍に歩み寄って話しかけていた。
随分と若い女性達だ…と思ったところで、このカフェの近くには大学施設があったのだと思い出す。
時間的に、講義が終わった女生徒達がここで休憩をする為に足を運んだところで彼を見つけて声を掛けたというところだろうか?
(…………邪魔したら悪いし……様子を見るか)
考えたら三日月も恋人の一人や二人いても全くおかしくない年齢だろうし、あの見た目なら相手もより取り見取りだろう。
遠目だが、あの美しい男に声を掛ける程の度胸と自信があるだけあって彼女達も相応に美しいと言える見た目に思える。
「…………」
ほんの少しだけの興味に押されて、こそこそこそ……と面影が向こうに気付かれないよう音を立てないように近づく。
同じ職場でもないので、三日月が自分以外の誰かと言葉を交わすところはあまり見たことがなかった。
さて、あれだけ若くて美しい女性達とあの男はどんな会話を交わすのだろう?
普段、女っ気が皆無のあの朴念仁がどんな感じで女性達と相対するのか、ちょっとだけ興味もあった。
いつも見ている彼は、常に優しく、声を荒げたところなど見たことがない。
『どうした? 面影』
相手の名を呼べば、いつでも優しく微笑みながら答えてくれる。
外面だけが良い人間も世の中にはごまんといるが、三日月はそういう類の人間ではなかった。
この男には非の打ちどころというものはあるのだろうか、と本気で悩む程に、三日月はよく出来た男だった。
強いて挙げれば、優しすぎるところ……はあるかもしれない。
その優しさに付け込まれて、いつか彼が傷つく事になるのではないかと危惧する時もあるのだが……たまに指摘をしても、決まって相手はこう返してきた。
『お前こそ』
何がお前こそ、なのか、よく分からない………
何はともあれ。
三日月の様子を窺おうと、面影は地植えのユーカリの陰に隠れてこそりと顔半分程度を覗かせた。
何とか声も聞き取れそうな距離だが、向こうが意図的に声を潜めたりあまり込み入った話だと理解までは難しいかもしれないな……
はしたない事をしている自覚もあるので、無理に聞く必要はないと軽く考えていた面影の耳に、柔和な物言いなのにはっきりと拒絶を示す声が届いた。
「うむ、興味ない」
反射的に面影は口元を手で押さえて息を止めていた。
(は……え……?)
何だ……今の言葉……
声は三日月宗近のそれであり、言葉そのものは耳障りは悪くないのに、普段聞いているそれとはあまりにも違い過ぎる……
いつもなら気が緩んでしまう程に柔らかな声で、言葉で、語ってくれる三日月が、こんな冷えた氷の刃の様な声を出せるなんて……
勝手に動揺している面影を他所に、三日月は再び、今度はより冷えた声音で言葉を続けていた。
「これから会う者に要らぬ誤解をされたくない。俺があやつ以外の誰かと懇ろな仲だなどと思われる訳にはいかぬ。疾く去ね」
うわーーーーーーーーっ!!!
自分の事ではないのに、思わず頭を抱えながら面影は心の中で大声を上げる。
駄目だろう、その返答のやり方は!!!
やけに古めかしい言い方をしているのにはこの際目を瞑るとしてもだ!
どんなに機嫌が悪くても、そんな投げやりな言い方をしてしまったら、モテる者もモテなくなるぞ!?
折角あんなに良い男なんだから、ちゃんと対応したらそれだけで相手はいくらでも……
そう思い掛けたところで、はた、と我に返る。
(いや………私が、心配する義理は……ない、のか………)
自分は単なる雇われ人であって……三日月にとっては、それだけの存在に過ぎない……のかもしれない。
(………あれ…?)
当たり前の事を考えただけの筈なのに、何故か、胸が痛い………何故だろう?
(…ああ、そうか……三日月、これから親しい人と会うって言ってたから……)
成程、そういう予定があったから、こんなに早い時間にもうこの場所に来ていたのか。
それをこちらは知らされていなかったから、一抹の寂しさを感じてしまっていたのだろう、と自己分析。
しかし、あんなに他人に憤る程に大切にしている人との時間なら、そもそも自分との待ち合わせなどしなくても良かったのでは?
自分に会う予定など最初から立てずに、その人と大事なひと時を長く過ごせば良かっただろうに……
(…? でも、そんな人、これまで一度も紹介された事は無かったな…)
最初に知り合ってからそんなに時間は経過していないけど、その間に色々な事があり、もう他人とは思えない程度には自分は思っていたのだが、向こうはそうではなかったのか。
それを思うと少し寂しさを感じたが、これもこちらが強制出来るものではないだろう。
勝手にこちらが三日月との距離が縮まっていたと勘違いしていただけなのだ。
(うん……友人……そうだな、世話している内に友人とか身内みたいな感じになっていたのかも…)
こうして予定時間より早く此処に足を向けたのは、自分も少なからず外で彼に会える事を楽しみにしていたからなのか、と今更ながら自覚。
(……なら、胸がこんなにもやもやするのも………)
思い当たる感情に、ぽんと握った右手を左の掌に打ち付けてうんと頷いた。
(そうか、これが親離れされた時の親の感覚なのか……!)
もしこの心の中の声が三日月に聞かれていたら、「そういう事じゃない!!」と泣いて縋られていたに違いないが、残念(?)ながら当然、そんな事にはならなかった。
ここで面影が雇い主の三日月ではなく、自分を堂々と親側だと認識したのは、おそらく三日月の身の回りの世話全般を己が担っているという自信からくるものだろう。
面影が勝手に自己完結している一方で、三日月に言い寄ろうとしていた女性達はさっさと退散していったらしい。
誰も彼の周りにいなくなったが、面影は三日月に寄ろうとはしない。
予想では、もうすぐ三日月が懇意にしている誰かが来る筈だ。
邪魔になるのも申し訳ないし、この際だからその人物がどういう人なのか見てみよう……ちょっと興味あるし……
(三日月に相応しい人物なら応援こそすれ邪魔するつもりはない、けど、為にならない様なら忠告ぐらいはしてあげた方が良いだろうな…)
これも友人としてのよしみ、というやつだし………
そう心を決めて、それからもじっと三日月の様子を窺っていた面影だった………
(おかしいな………)
待てども待てども………目当ての人物が来る気配がない………
(何をやっているんだ相手は………もう私との待ち合わせ時間になってしまうじゃないか……)
折角の逢瀬が見届けられるかと思ったのに…と思ったが、自分まで遅刻する訳にはいかない。
当の三日月本人は、誰も来なくてもそれを気にする風でもなく苛立つ風でもなく、淡々と手持ちの本に目を向けて読書に勤しんでいる。
「………はぁ」
もう行くしかないか……彼の相手を見られなかったのは残念だったが………
「! おお、面影」
すたすたと何事も無かったように近づいてきた面影に気が付くと、明らかに機嫌を良くした様子で三日月が笑顔で若者を迎えた。
「…遅くなってしまって」
「何を言う、予定より早い程だ。俺は楽しみにし過ぎていた様で早めに来てしまっていただけだ、気にするな」
「………は?」
どういう事だ? 自分と会う前に誰かと会う予定だったのだろうに………もしかして気を遣って言ってくれているのか?
そんな面影の不自然な反応に目敏く気付いた三日月が追及する。
「面影? どうした、俺は何かおかしな事を言ってしまったか?」
「いや……別に……え………私の前に誰か大切な人と会う予定だったのでは…?」
「? 俺が今日会う予定だったのはお前だけだ。他の奴を入れるなど野暮な事をする筈ないだろう?」
「ん、ん………?」
最初こそ上手く誤魔化そうとしていた面影だったが、三日月が相手の反応に意外な程に執着を示した所為で、結局、カフェに到着した後での行動を訊き出されてしまっていた。
不思議な話なのだが、この三日月という男を前にすると、尋ねられた事をつい素直に話してしまうのだ。
異常な程に聞き上手というか……まるで魔法に掛かってしまった様な感覚だ。
人心掌握術…という様なものだろうか?
「………と言う訳で、逢瀬を邪魔する訳にもいかなかったから、遠慮して向こうで控えていただけだったのだが…」
「…………………」
淡々と語った面影に反し、三日月は何故か酷く傷付いた様な、憔悴した表情を浮かべていた。
「…あの……?」
「……………そうだった、な」
「はい?」
かた、と小さな音が響くと同時に三日月の目線が一気に高くなる。
立ち上がり、見つめてきた三日月の視線に、知らず面影は一歩下がる。
怖い……別に責める様な視線でもないのに、貫くような目力に身が竦んでしまいそうだった。
「……お前は昔から過剰な程に控え目な男だった………押し過ぎたら引かれてしまうかと我慢していたが、それがいけなかったのか……?」
「え………?」
昔……? 何の話だろう?
三日月は時々、不思議な事を呟く事がある。
最近見知ったばかりの自分の事を、昔から知っているかの様な言葉を。
「何の事、だ…?」
「………いや、こちらの話だ」
先程感じた威圧感はいつの間にか霧散し、目の前にはいつもの様に穏やかな笑みを浮かべる男がいた。
「すまんな、ちょっと思い出した事があった…気にするな」
「あ、ああ……」
「さて、行こうか。これからのお前の時間、俺が貰うぞ?」
まるで恋人を独占する様な男の物言いに、面影の顔が知らず赤く染まっていく。
「お、大袈裟だ……そんな言い方……」
「何故だ? 俺にとってお前と共に過ごす時間は、何より優先されるべきものだぞ」
「……っ」
それもやはり、聞き方によっては愛する者に対する言葉に聞こえてしまう。
臆面もなく言い切る男の、先程の言葉が思い起こされた。
『これから会う者に要らぬ誤解をされたくない』
まるで……恋人の疑念を恐れる様な言葉だった。
そう言えば。
これから大切な人と会うのかと思っていたが、自分以外にそんな予定はなかったと言う。
つまり、誤解を受ける事を恐れていたその対象の相手というのは………私…?
そこに思考が至ったところで、身体が凍った彫像の様に固まる。
(……え………これって……)
これらの状況証拠が指し示す一つの答えは、それは……
三日月は、もしかして………自分の、こと………
(い、いやっ、そんな…都合の良い話が………けど、そう思えば……)
この三日月という男は、初対面の時から異様に自分に対して優しかった。
通常、人間関係は少しずつ少しずつ信頼関係を築いていき、それと共に親愛の情も深まっていき、心の距離が縮まっていくものだ。
しかし三日月は、初対面の筈の自分に対してやり過ぎではないかと思う程に心を砕いてくれていた。
何の損得勘定も窺わせる事もなく純粋に心を向けてくれている相手を見て、当初は世間知らずのお人好しなのだろうと思っていた、心配すらしていた。
こういう人種はこのご時世、あっさりと悪人に騙されるから。
その証として、自分が他人の失火で過去の住居を焼け出されてしまった時も、この男は疑う事もなく速攻で自宅へと招き入れたばかりか、マンションの一室を借り上げて、そのままそこに住まわせてくれた。
加えて、自分を家政夫として雇い入れ、毎月罪悪感を覚えそうな程の給与を与えてくれているのだ。
もし自分が悪人だったなら? 彼の善意を利用し、金を上手く巻き上げるような下劣な人間であったなら?
その向かう先は三日月の破滅に繋がる事は想像に難くないだろう。
ここまでくると最早正気の沙汰とは思えない、もしやしたら彼は何処かの大富豪の放蕩息子なのではないかと訝ったが、どうやらそうでもないらしい。
彼の持つ富は誰かから譲られたものではなく一代で築いたものらしいが、本人はまるでその富に興味はないらしい。
らしい、というのは、気を抜いたらすぐに彼が自分に対して過剰に散財してしまうのを見ているからだ。
その感覚があまりに危なっかしくて、家政夫になった面影がそれを窘める事も多いのだが、そういう時ですら三日月は何故か楽しそうに嬉しそうににこにこと笑っているばかり。
『俺は、お前に使うことが一番嬉しいのだ』
それもまた、自分自身に対する贅沢に飽きた富豪の戯れの様なものだと思っていた。
あれがもし……恋人、そういう類の対象に対する愛情の現れだったのだとしたら……?
(え………う、そ………うそ……)
かあぁ…と身体が熱くなっていく一方で、自惚れてはいけない、と心の奥から警鐘が聞こえてくる。
三日月本人からそんな告白などされていないのだ、思い込みで相手の気持ちを決めてはいけない。
確たる証拠もないのに三日月の気持ちをそうと取ることは、彼に対する侮辱そのものだ。
そうだ、彼の気持ちを確かめられたのなら、その心を知る事が出来たら………
「あ……………」
そうだ、聞いてみたら良いのだ。
自分の事をどう思っているのかと。
簡単な質問だ、ほんの数秒でそれは済む。
しかし……
「? どうした?」
「……………何でも、ない」
三日月の澄んだ瞳に見つめられ、面影はその場を誤魔化した後、開きかけていた唇をあえなく閉じてしまった。
(きっ……訊ける訳がない、そんな事…っ!)
「行為」は簡単であっても、その質問は心情的に抵抗が大き過ぎる。
もし質問を投げ掛けて彼からの返答が否定的なものだったら、自分はもうこれまでと同じ様に彼の傍にはいられない、即座に暇を告げて借りていた部屋も出て行くだろう。
単なる憐みで情を掛けてもらっていた若造が勘違いして図に乗っていたのだと暴露する様なものだ、そんな恥を晒してこれまで通り顔を合わせられる程に厚顔無恥ではない。
しかし、何より面影が問いを躊躇った理由は………
(す、好きだと…そうだと言われても………どう答えたら良いんだ…!)
このご時世、昔の様に同性同士の交際は別に珍しいものではないし、自分もそれに対し偏見はないつもりだ。
しかし単純にこれまでそういう感情を抱いた事がない自分には、その結果はあまりにも荷が重い様に感じられてしまうのだ。
特に、その対象が目の前の美々しい男だとしたら尚更に。
(う、美し過ぎるだろう……性格も穏やかで優しくて、それでいて頼りがいもあって…知己としても気後れしてしまう時があるのに…しかも、もし……そういう関係になったとしたら……三日月は多分…)
これまで以上に自分に接近してくる様な性分だ!
(そうなったら……わ、私の心臓が持たないかも……だし……かと言って……なら断るか、と言われると…)
自分も三日月の事は嫌いではない。
と言うよりは寧ろ逆……好ましいと、思っている。
問い掛けの返答次第ではこちらの気持ちを確認される事にもなるのだ、そう思うと安易に質問など投げ掛けられる訳がない。
(…取り敢えず保留……うん、今は現状維持という事にしておこう…)
別に急ぐ必要もない、今の二人の関係もそれなりに心地好いものだし……下手にそれを崩す事もないだろう。
問題を先延ばしにする事は宜しくないかもしれないが、こういう感情を伴う件については拙速な判断は避けるべきだ。
「そうか、では行くぞ?」
「ああ」
面影の心中での思惑など知る由もなく、三日月は相手に移動を促し、面影もまた素直にそれに従って三日月と共にその場を離れるべく歩き始めていた…………
その日は結局、面影は三日月と共に街を巡り、それなりに充実した時間を過ごして帰宅する事になった。
しかしやたらと心に負荷を掛けるような考え事をしてしまっていたせいか、帰宅後に疲労がどっと彼の身を襲ってしまったらしく………
「ん………」
不意に面影が目を覚ました時、彼は自身がソファーに身を横たえている事に気付いた。
もぞり、と身体を小さく揺らす様に蠢くと、その身に柔らかな素材のブランケットが掛けられており優しく肌の上を滑っていく。
(あ……ここ、三日月の家のリビング…)
ぽけ~っとまだ寝起きの胡乱な思考の中で此処に至ったまでの経過を思い出す。
そうだ、今日はずっと外で三日月と遊んで…遊ぶと言っても様々な店を巡ったり本屋に行ってお勧めのものを教え合ったり、極めて健全なひと時を過ごしただけなのだが。
その後は、いつの間にか相手が予約していた小洒落たレストランで美味しい食事をご馳走になって……帰宅したのはもうかなり遅い時間で本来なら自分の部屋に戻っている時分だったのだが、もう少し話そうと三日月の部屋に誘われたのだった。
そして二人でソファーに座って、取り留めのない話を楽しんでいたところまでは記憶があるのだが………
(……もしかしなくても……やらかした…?)
ここまで状況を認識したら、何があったのか考えるのは容易だった。
きっと自分は三日月と楽しく談笑している内に、うっかり疲労もあってそのまま寝堕ちてしまったに違いない。
それを見た彼が、このブランケットを掛けてくれたのだろう。
その現場を見てもいないのに、男が自分にこれを掛けてくれている情景が容易に目に浮かんでくる。
仕方ないな、と苦笑しながらも、ブランケットを掛けてくれる仕草は優しかったに違いない。
(な、なに期待する様な事を考えてるんだ私は………恥ずかしい)
昼間の件をまだ引き摺ってしまっているのか、思考がどうにも甘酸っぱい方へと流されてしまっている様だ。
それに引っ張られてしまったのか、急に心臓が忙しなく脈打ちだすのを感じてしまい、面影は一人で横になったまま動揺してしまった。
そんな彼の耳に不意に遠くから物音が聞こえ、は、と若者はそちらへ集中する。
かた……ばたん…と何かを開閉する音…金属的なものではなく、もっと柔らかな耳障りの音だ。
音の聞こえて来た方向とそれだけで、面影は即座にその原因を察した。
(ああ………入浴、終わったんだ)
此処に家政夫として働き出してそんなに時間は経過していないが、もうすっかり三日月の生活音は把握してしまった。
これは家政夫として当然の事なのか否か……比較するものが無いので分からないけれど、ここまで相手の生活について理解しているのを再認識するのは悪い気分ではない。
そんな事を考えている間に、着替えを済ませたらしい三日月がリビングに戻って来た気配と足音が響いて来た。
(しまった……起きるタイミングを逃した)
別に今でも身を起こしても何ら問題はないのだろうが……そうすると、相手に自分を起こしてしまったと気を遣わせてしまうかもしれないし…寝起きのだらしない顔を見られてしまう。
それは単純に嫌だった。
(これは…あれだな……一度やり過ごして、三日月がまた席を外したところで起きよう…)
どうせ寝ている相手しかいないのなら、大した興味も持たずに通り過ぎるだろう。
声を掛けるなどして起こされたら、その時はそれに乗じて起きたら良いし……風呂上りならおそらくキッチンに行って飲み物でも調達してきてくれるかもだし……どうとでもやり様はある。
やり過ごす際の状況を脳内で何種類かシミュレーションしている間にも、ひたひた…と裸足でこちらへと歩いて来る三日月の気配が近づいてきた。
(うわ……緊張する………どうか、バレませんように…)
瞳を閉じ、寝ていた時と同様に静かに寝息を立てていた面影の傍まで足音が聞こえてきたかと思うと、徐にひた、とその音が止まった。
「………………」
ほぼ無音の世界がその場に広がる。
(あ、あれ………? 三日月……そこに、いる……?)
ソファーのすぐ傍に佇む三日月の気配……目を開けなくても、何となく向こうがこちらを見下ろしてきているのは感じられた。
(………まずい)
表面上は眠っている振りを続けている一方で、面影の脳内でぶわっと変な汗が噴きだし始める。
スルーされる事を前提で考えていたのに…ここまで注目を浴びる事になるとは考えていなかった…!
(しまった………人の家に上がり込んで寝入ってるなんて、よく考えたら酷く失礼な事だった……!)
いっそここで起きてしまおうか……いや、このタイミングだと却って不自然過ぎるかも………
ああ、どうしよう、どうしたら……この場を上手く切り抜け………
するん……
(……っ!?)
ほんのりと温かな三日月の手が、ブランケットの上に置かれていた面影の右手を取り、静かに厳かに己の方へと引き寄せた。
(…え、あ………これって)
一瞬、手を取られた面影が激しく脳内で慌てたが、直ぐに一つの可能性に行き当たり腑に落ちる。
(あぁ、これって、そのまま腕を引かれて起こされるパターンか…)
それもそうだな……なら、この辺りで起き……
「……酷い男だ…………」
いよいよ起きようとしていたところで不意に降って来た三日月の声…
(え!?)
あまりにも予想外の言葉に思わず目を開けそうになったが、何とか踏み止まる。
踏み止まりはしたが、それでも今の言葉の真意が分からずに動揺は治まらないままだった。
(ひ、酷い!? 私が!? え、どうして、私、何かしてしまったか……!?)
あり得ない程の速さで過去の己の振る舞いを必死に掘り起こしてみたが、思い当たるものは一切なかった。
となると、自分では問題ないと思っていた行動が、知らず知らずの内に相手の地雷を踏み抜いてしまっていたのか…?
もしそうなら、直ぐにでも詫びて改める事を伝えなければ………
となるとやはり今起きるしかない……!
目を開こうとしたところで、再び三日月の声が降って来る。
「……俺が、大切な誰かと会うかもしれないと思いながら、お前は嫉妬すらしてくれないのか……?」
(え……)
動揺に加えて混乱で頭の中が台風並みにぐちゃぐちゃになってしまう。
嫉妬!? 誰が、誰に…!?!?
その面影の腕が、更に三日月の方へと引き寄せられたかと思うと、
ちゅ………
(!!!???)
手甲に何か柔らかなものが押し当てられると同時に、遠く軽い音が響いた。
それは…それらが示す事象は………まさか……
(は………え……?)
愕然としている間に、温かで柔らかいそれは再度面影の手甲に触れてきて、それからゆるゆると三日月の手は名残惜しそうに面影の腕を元のブランケットの上へと戻してくれた。
(い……今のって…)
さわり………
落ち着かなければ……!と必死に己を律しようとしている面影の努力などまるで関係ないと言う様に、今度は三日月の手が眠っている(振りをしている)面影の右頬に触れ、そのまま流れる様に彼の柔らかな髪を梳いていった。
(~~~~~!!!)
優しく細い指先が肌に触れたところから炎が生まれた様に熱くなっていく。
そんな皮膚の熱に意識を向けていたところで、同じく右頬に微かなそよ風が吹いて来て……
ちゅ……
(へ、ぁ……!?!?)
今度は右頬に優しい熱が触れてきて……離れたかと思うと、今度は額……そして鼻尖へと………
目を閉じたままだからその情景を見る事は叶わなかったが、脳内でそれを思い描く事は可能だった。
(み、三日月………頼む、もう、止め………)
気を抜いたら全身が震えそうで、熱い吐息も漏らしてしまいそうで、面影は必死に耐えていた。
そんな若者の耳に、遂に致命的な相手の声が届けられる。
「俺の『大切な人』はお前だけだ………面影」
(!!??)
心臓が止まるかと思った。
いや、世界の時が止まってしまったかもしれない。
昼間に問おうかと思っていた質問の答えが、図らずもあちらから与えられてしまった。
幸いだったのは、今の自分は向こうから見て眠っている状態なので、返事を迫られる事は無かったという事だろうか。
それでも面影にとっては刺激が強すぎる事は確かだったが………
(う、そ…………三日月、が………)
きっと向こうは自分が眠っていると信じ込んでいて、胸の内を吐露してしまったのだろう。
まるで盗み聞きをしてしまった様な罪悪感を覚えてしまったが、今更懺悔するなど出来よう筈もなく、彼は変わらず必死に眠った振りを続ける事しか出来なかった。
「………ふむ」
面影に繰り返し唇以外の場所に口づけを与えていた三日月は、それである程度は気が済んだのか、両腕を面影とソファーの隙間に差し入れたかと思うと、軽々と若者の身体を横抱きに抱き上げた。
(う、うわ………)
今度は何だ、何をされてしまうんだ…!?!?
いや、相手が三日月なら、決してこちらを傷つけるような事はしない筈……!
いやいや、傷つける事はしないまでも、さっきの様に心臓を止めるような真似ももう勘弁してもらいたいのだが……!?
そんな稼働停止を懸念されていた彼の心臓は、今は皮肉にもどっどっど…!と過剰な程に稼働している。
どうか近くにいる三日月に聞かれない様に、と非現実的な願いを心中で呟きながら面影は大人しく彼の腕の中に収まっていたが、三日月は若者の身を抱き上げている事実すら感じさせない程に身軽に動き、パジャマ姿のままマンションの部屋を出た。
そしてそのまま隣の部屋へと移動すると、自室の玄関先に置いていたカードキーを使い、そのドアを易々と開錠する。
言うまでもない、その隣の部屋は三日月が面影に与えた彼の住居だ。
借りているのが三日月なのでその部屋のスペアキーを彼も保持しており、当然面影もそれについては承知の上である。
勝手知ったる様子で三日月は中へと踏み入ると、真っ直ぐに面影の寝室へと向かう。
元々が三日月の部屋と間取りも似ているし、何度も面影の部屋にも遊びに来た事もあったのだ。
当然ながら寝室の場所も把握しており、三日月は薄暗い空間でも悠々と歩を進め、暗い部屋のベッドへと近づくとそっと細心の注意を払いながら面影の身を横たえてやる。
「…勝手に入ってすまんな。あのまま寝かせてしまっては風邪を引いてしまうだろうから……」
ひそ…と小さな声で詫びながら、三日月はブランケットの代わりに掛布団を優しく面影の身体に掛けてやり……
「おやすみ」
密やかな挨拶と共に、再び、面影の額に口づけを落として、三日月は面影の家を去って行った。
「……………」
残された、絶賛狸寝入り中だった面影は、寝室から三日月が去った後も暫く瞳を閉じていたが、完全に他人の気配が無くなったところでゆっくりとそれを開いた。
「~~~~~!!!」
直後、がばっと掛布団を自身の口元まで引き上げ、中で人知れず悶えまくる。
(うううわあぁぁぁぁ~~~~~!!)
何と言えば良いのか…今のこの感情を……!
飾らない、端的な言葉で言うのなら『恥ずか死ぬ』というところか!?
(み、三日月に………キス…された……んだよな…? み、見てはいなかったし、口にされた訳じゃなかったけど………あれは、間違いなく……)
彼の形の良い唇が、幾度も幾度も……自分の肌に触れていた………
そしてその唇から紡がれていた言葉は、いつにも増して艶っぽくて……聞くだけで、身体が燃えそうに熱くなってしまって………
「あああ…………」
悶える身体を抑えられないまま、更に掛布団を頭のてっぺんまで被り、無意味に声を上げる。
(どうしたら良いんだ………明日から……)
眠っていたならこんなに思い悩む事も無かったのに……
一瞬そう思ったものの、それは違う、と直ぐに思い直す。
知らなくて良かった、というのは、三日月の気持ちからの『逃げ』になるだろう…それは、違う。
こうして盗み聞きの様に相手の真意を知る事になったのは、正しい形ではなかったかもしれないが……それでも、知れたのは……二人にとっては良い事だったのだと思いたい。
しかし!
(それとこれとは話が別だ!! あ、明日からどんな顔して三日月に会えば……!!)
三日月は、きっとこちらが熟睡していて彼が仕掛けた『悪戯」については気付かれていないと思っている筈だ。
そう考えたら、明日からも今日までと同じ様に振舞えば良いのだろう、理屈では分かっている。
問題なのは、こちらは三日月の『悪戯』について気付いてしまったという事だ、そして彼の自分への想いも。
知った上で、これまでと同じ様に三日月と相対する事が出来るだろうか……甚だ不安しかないのだが。
(うう……悩んだところで頑張るしかないんだろうけど………三日月、そういうところは勘が鋭そうだから……や、やり過ごせるのか…?…)
そんな風に思い悩む若者の思惑など関係なく、夜は唯、更けていくのみだった。
結論を言うと、面影の微妙な行動の変化については、意外な理由で三日月にばれる事はなかった。
一夜を通して懊悩に苦しんだ面影は翌日、見事に寝不足の状態で三日月の部屋を訪れる事になってしまい、向こうは面影の微妙な変化に気を向けるどころではなく寝不足の若者の健康の心配ばかりをする結果になってしまったのである。
しかし一つ付け加えるとすれば…
その寝不足により、以降、面影はまたも三日月の『悪戯』を受ける事になってしまったのだった………