「あ」
朝のキッチンに面影の小さな声が響いた。
「? どうした、面影」
面影があまり意味なく声を出す男ではない事を知っていた三日月は、背後のキッチンへ振り返って尋ねる。
「いや、何でもない…その、占いが付いてたから」
若者が三日月に見える様に掲げて見せたのは小さな正方形の紙片だった。
その彼の前のワークトップには、開封されたばかりのワインビネガーの瓶。
どうやらそのボトルネック部のラベルに付属していたものらしく、面影はこちらへと歩いてくる三日月に向けて手にしていたくじ紙を差し出した。
「ええと……何か、良い事があるらしくて」
「ふむ?」
受け取って紙の内面に印刷されていたくじには『大吉』という太字が印字されており、その下にも何やら細々とした文面がある。
「…『今日は滅多にないラッキーデー。買い物に外出したら良いコトがあるかも!ラッキーアイテムは猫のアイイテム』………ほう」
頷き、三日月が優しく微笑みながら面影へと視線を戻す。
「丁度、買い物に行く予定があると言っていたな」
「ああ、スーパーで安売りがあるから。けど、おまけのくじだしそんな期待する様な事はないだろう」
「ふむ?」
子供の様にくじを安易に信じる事はしないぞ、というスタンスを取っているつもりの面影だったが……
「ええと………確か猫のキーホルダーが…」
しっかりとくじのラッキーアイテムを気にしている素振りを無意識にしており、それを見た三日月は口元に手を当てて噴き出すのを必死に堪えていた。
(そういうところだぞ、面影…)
昔……どれだけ昔の話なのかはもう今では自分でも分からないが、刀剣男士として生きていた頃から、この若者は純朴すぎる程に純朴な性格だった。
転生後であっても、その性質は全く変わっていないらしい。
「……良い事があるとよいな」
「っ! う………」
今更自分が取っていた行動を見られていた事に気付いて面影がわたわたと慌てだしたが、三日月は全て理解しているという様ににこにこと笑い、なで…と相手の頭を撫でてやった。
「俺も今から外に出る予定があるのでな。戸締りは頼むぞ?」
「? ああ、分かった…」
ほんの少しだけ感じた違和感だったが、面影は何も言わなかった。
(三日月……昨日は特に用事とか言ってなかった筈だが…急に予定が入ったのか?)
三日月の家政夫となり、暫くの時間を過ごした中でお互いの行動についても大まかではあるが把握しつつある。
そもそも彼は前日にはしっかりと面影に対して翌日の行動予定を伝えてくれるので、それについて予測が出来ずに困った記憶は一切なかった。
しかし、今、三日月は予定があり外出すると言った。
(………まぁ、たまにはそういう事もあるか)
気を取り直し、面影は三日月を見送った後に言われた通りにしっかりと戸締りをして外へと出掛けて行ったのだった。
面影より先に部屋を出たのは三日月だったが、彼が帰還したのは面影より後だった。
「ただいま帰ったぞ」
「あ、おかえり、三日月」
白い紙箱を手にした三日月がリビングへ入ると、そこのテーブル上に複数のアイテムが置かれており、傍のソファーに座っていた面影がこちらへと視線を向けるところだった。
アイテムについてはその殆どが日用品であり、今日の面影の買い物の成果である事が分かる。
「買い物はどうだった? 良い事はあったかな?」
「ああ…」
話題を向けられた事で、朝の占いについて思い出した様子の面影が苦笑しながら首を横に振った。
「いや、特に何の変わり映えもない時間だった……あ、けど、品切れもなかったしいつもよりお得に買えたものがあったから、それは確かにラッキーだったかもな」
「はは、そうかそうか、お前の日頃の行いが良かったのかな?」
ささやかな成果にも自分の事の様に笑ってくれる三日月に、少しだけ困惑しつつもやはり嬉しかったのか、口元を綻ばせながら面影が言った。
「身に過ぎる欲をかいても碌な事にならない……これぐらいの幸運が丁度良いのかもな」
「ふむ?……ああ、そう言えば」
三日月が思い出したように手にしていた白い紙箱を面影に向けて差し出した。
「土産だ」
「? 有難う」
反射的に受け取ってまじまじと箱を見つめる。
このサイズの大きさと重さの…この手の箱の中身は……
「ええと、開けても?」
「勿論」
許可を取ってから遠慮がちに箱を開けてみると、宝石箱の様に鮮やかな見た目のケーキが二つ、中に鎮座していた。
「わ………」
「たまたま通り過ぎた店でお前が好きそうなケーキを見掛けたのでな。後で一緒に食べよう」
「い、良いのか?」
確認はしてくるが、明らかに期待している子犬の様な瞳で見上げて来る若者に、思わず破顔してしまう。
「ああ、ついでに買ってきただけだが………こちらがラッキーデイの恩恵だったのかもしれんな」
「? それは違うだろう」
珍しく、面影が三日月の言葉をすぐに否定する。
直ぐには言われた言葉の意味が理解出来なかったのか、三日月が怪訝そうな表情を浮かべると、面影は笑みを深めて説明した。
「このケーキは偶然じゃない、三日月がわざわざ私の為に買ってきてくれたものだろう。なら、ラッキーではなく、紛れもないお前からの優しさだ。本当に有難う」
「!」
不意打ちの様な面影の笑顔に、無意識に息が止まる。
「………お前は」
本当にそういうところだぞ、と言えない言葉を飲み込みながら、三日月は動揺を隠しながらその場から動き出す。
「少し汗をかいてしまった。シャワーを浴びてくる」
「? 分かった。着替えは棚の中に置いてあるから」
「うむ」
浴室に消えて行った相手の後姿を暫し眺め、面影も気を取り直して動き出す。
三日月へのお披露目も恙無く終わったし、テーブル上の物品を然るべき所に仕舞わなければ。
(気を抜いたら直ぐに手を貸してくるしな………仮にも雇われてるのに私の仕事を雇用主にやらせるなんて……)
善良な雇用主に恵まれたと言えばそうなのだろうが、あまりに気を遣われてしまうと却って恐縮してしまう。
三日月はいつも自分の事を大事な宝物の様に扱ってくれる。
しかしそれは、元々天涯孤独であり、過去に住んでいた住居を火事で焼け出されてしまった不幸な身の上の自分を憐れんでくれているのだろう。
それぐらいしか彼の優しさで思い当たる理由がない。
いや、もし少しだけ自惚れを許されるのなら……友人、と呼べる程度には心を許されているのかもしれない……もしそうなら…自分は嬉しい。
(……けど、下手に寄り掛かると迷惑に思われるかもしれないしな……立場はしっかりと弁えておかないと)
よく居るのだ……ほんの少し関りを持っただけで友達面をする様な、距離感を掴めない人間が。
口に出す事はなかったけれど、自分も幸か不幸か整った顔立ちに恵まれていたせいで、そういう輩に絡まれた事がある。
あの時に感じたうっとうしさ……あれと同等の感情を三日月に持たれたくはない。
そう思っていてさえ、あの優しい男に絆されて距離感を誤りそうになった事が幾度もあるのだから、油断も隙もあったものではない。
自分はこんなに無防備な人間ではなかった筈なのに、何故か三日月が相手になると勝手が違ってきてしまう、調子が狂いっぱなしだ。
「……テレビでもつけるか」
こうして自分一人で思案していても自己嫌悪に陥りそうだと、気分転換も兼ねて面影はリビングのテレビのリモコンを持ち、スイッチを押した。
直ぐに反応して大画面に何かの番組が映し出され、面影がボタンを押す度に画面が切り替わる……と、その内の一つの番組に目が留まり、彼の指の動きが止まる。
「?」
見覚えがある、赤煉瓦造りの建物の中の店並び……あれは自分が向かったモールとは反対側にあった商業施設だ。
その内の一つの店舗にどうやら取材班がインタビューを行っているところらしい。
(あ……此処、知ってる)
知っていると言っても、面影本人がその店を訪れたことはない。
何故なら、彼の様に清貧を旨とする様な若者が足を踏み入れる事すら躊躇うような超が付く程の有名パティスリーの店だったから。
インタビュアーはその店で現在話題になっている一つのケーキについて色々と説明している様子だったが、面影の視線は真っ直ぐにそのケーキへと向けられていた。
暫くそのケーキを凝視していた彼が、ふ、と手元の紙箱へと視線を移し、ぱかりと再度開いてみる。
「……………」
あの画面の向こうに映っているケーキと寸分違わぬ物が二つ、箱の中にあった。
(え………?)
呆然とする面影の耳に、TVからの声が流れて来る。
『こちら、開店前から行列が出来る程の大人気スイーツで、連日完売しており……』
(は…………?)
聞き間違いか…?と疑ったが、画面を見ると確かに店舗の壁に沿ってずらりと並ぶ客の行列。
どう見ても、ふらりと立ち寄って気紛れで買い求める様なアイテムではない。
(え………けど、だって……三日月は……)
『たまたま通り過ぎた店でお前が好きそうなケーキを見掛けたのでな』
さらっとそんな事を言って、気安くこれらを手渡してきた。
しかし、状況から鑑みるに、彼はきっとわざわざ行列に並んでこれを買って来てくれたのだろう。
大した労力を使っていない様に見せかける為にあんな事を言ったのだとしたら、何故………
「………あ」
そう言えば、三日月の外出そのものが予定外で急なものだった。
朝の会話で『占い』について話した後で、彼は用事の内容について語らないままに出掛けていったが……
『……良い事があるとよいな』
(もしかして………気を遣ってくれた……?)
ラッキーデイと言われても、当然、ラッキーアイテムを持参したところで本当に幸運が訪れるという保証はない。
大体は今回の様に何事もない日常を過ごすのみに終わる事が殆どだろう、ラッキーにこじつけられるささやかな幸福が訪れる事はあったとしても。
でも、自分が何事もなく帰宅しても……三日月がこうして自分が好みそうなケーキをわざわざ買って来てくれた……
これは、三日月が自分の為に意図的に運んできてくれた『ラッキー』だったのではないか?
何事も起きなかった事に落胆し、帰宅していたかもしれない自分の為に………
「~~~~~……」
既にTVの画面には異なる話題の店が映っていたが、暫く面影はその場に立ち尽くすしかなかった。
(………そういうところだぞ、三日月…)
じわじわと顔が熱くなってきて、頬に片手を当てながら唇を噛みしめる。
こんな事……自分ではなくても、誰もがやられたら一発で惚れてしまうだろう。
(…………あまり優しくしないでくれ……勘違いしそうになる…)
言いたいけど、言えない……今の、二人の関係が大きく変わってしまいそうな気がして。
彼はとても優しい、自分にも……きっと他の者達にも。
だから、素直に喜ぶとしても、自惚れてはいけないと己を戒めなければならない。
彼の優しさを向けられるのは自分だけではないのだと。
それでも。
このまま、彼の優しさを享受しながら自分なりに相手を支えていきたいと思うのは、狡いだろうか。
もし、もし相手に人生の伴侶が見つかったとしても、せめて友人として傍で彼の幸せを見守る事は許してもらえないだろうか……
(………身に過ぎる欲をかいても碌な事にならない、のにな)
三日月に対する気持ちが徐々に大きくなっていくのに、それが何と呼ぶべきものなのか分からない。
いや、思い当たる言葉は知っているが、それを認める程に傲慢にはなれない。
「……三日月」
手にしている箱の重みは大したものではないが、そこに在る相手の『心』を思うととても重いもののように感じられた。
未来の事は分からない。
それでも、これらは彼が自分の為に買って来てくれたものだ。
(私だけの為に……そう思っても構わない…だろう?)
それをしっかりと手にして、面影は自身に言い聞かせる様に呟きながらキッチンへと向かう。
「今日は気合を入れてお茶を淹れないといけないな」
三日月が運んできてくれた『ラッキー』に応える為に…………
その日のティータイムは、愛情深い男と、その心遣いをこっそりと知った若者にとって、とても優しく穏やかな時間が流れていたという………