恋の気配





「マンデリン一つ」
「はい」
 その日は喫茶店のバイトの出勤日。
 面影は、手慣れた動きで常連客であるサラリーマンの注文を受けてすぐにテキパキと動き出す。
 その仕草は彼の見た目にも似て繊細だが、見ているだけでも心地良い程に俊敏だ。
 この若者がこの喫茶店に雇用されたのはかなり前の事。
 ここはチェーン店ではなく、とある個人が趣味で始めたレトロな喫茶店。
 土地も猫の額程に狭く、店内の全ての席を埋めたとしても十人も入らないだろう。
 しかし、この店が満席になる事など滅多にない。
 元々が繁華街等からも離れた場所であり、知る人ぞ知る隠れ家的な店だったので、気を付けて歩いていないとそこが喫茶店である事すら見過ごしてしまうかもしれない。
 申し訳程度に看板は出ているのだが、それでも目立つものではなかったので、最早景色と同化してしまっている。
 しかしだからこそ、会計から調理から接客まで、一人でもこなせているのだ。
 あくまで趣味でやっているという事なので収益もそこそこあれば良いらしく、オーナー本人が『人が来すぎると大変だから』と訳の分からないスタンスを取っている。
 昔はオーナー一人で回していたらしいのだが、体力の衰えなどを自覚し、ようやくバイトを入れる事にしたらしい。
 これまでバイトは何度か入れ替わっていったのだが、今のこの若者が店に入る様になってから店に立ち寄る人々が増えている様だ。
 それはこの常連のサラリーマンに限らず、この店に通う人々の殆どに共通している認識だろう。
 バイトという立場はどうしても腰掛けでの仕事という認識に陥りがちで、本人がそう考えていなくてもどうしても手を抜いてしまいがちなのだが、この新しく入った若者は根っから真面目なのか課された仕事を淡々と、しかし堅実にこなしていた。
 接客も決して媚びている訳ではなく、寧ろ淡々としている方かもしれないが、それが却って客からの受けを良くしているらしい。
 下手に干渉せず突き放す訳でもなく、オーダーを手早く処理し実行する事により、客人の何より貴重な『時間』を浪費せずに品物を提供する……店員の鑑と言えよう。
 しかもその若者の姿が、見目麗しいものならば尚のこと。

『ねぇ、知ってる? ここの喫茶店の…』
『知ってる、学校でもちょっと話題だもん。凄いイケメンがいるって』

 こんな感じの会話がどれだけ店外の歩道で交わされてきたことか……
 しかし、そんな風に自分が話題の中心になっている事には一切の気を向ける事無く、面影はやはり淡々と業務をこなす事に集中するのみだった。
 そんな淡白すぎるバイトに、最近では豪胆にも声を掛けたり世間話を向けて自分に興味を引こうという若き女性客もちらほらと出てきている。
 恋心というものは、時に向かうところ敵なしの勢いを持つものなのだろう。
「ねぇお兄さん、好きな人っているんですかぁ?」
「…さぁ、取り立てては今は」
 その時間帯は丁度客足も途絶え、多少会話を交わしていても他客の迷惑にはならない。
 たまたまだったのか狙っていたのかは不明だが、勇気ある近場の高校の女学生はブレンドコーヒーを注文して出て来るまでの間、面影にそんな話題を向けていた。
 対する面影は、会話しながらの作業も慣れてきているのか、問いにさらりと返しながら手際よくコーヒーの粉などを準備し始める。
 コーヒー一杯とはいえ、小さいながらもこの店はコーヒー豆の選別はしっかりと行っており、チェーン店の様な安価な値段ではない。
 高校生の財布には決して優しくないが、それでも彼女が此処に来たのはコーヒーの味が気に入ってくれたのか、それともこのバイトと懇ろになるのを期待して来ているのだろうか。
「じゃあ今まで好きになった人っています?」
「……特に記憶には。私は…面白味のない人間らしいので」
 僅かに視線を宙に向け、思い出しつつそう答えた若者は、遠慮などそういうものは抜きで本当にそう思って答えているのだろう。
 過去から現在に至るまで、心の中にそんな大切なものを仕舞って生きてきた記憶がない。
 そもそも、相手がしきりに言っている『恋』、『恋人』、『好きな人』、という概念が分からないのだ。
「うわ、じゃあ恋人いない歴イコール年齢ってコト?」
「…そうですね。恋というものがどういうものか良く分からないので」
 フラスコをビームヒーター上に設置し、手早くロートを差し込みながら面影は頷いて言った。
 恋というのは想い合う二人にとって至上の感情なのだろうが、体験した事がない自分にとっては絵に描いた餅の様なものだ。
 そんな感情が滲み出ていたのか、相手の女子はうわぁ…と少しだけ眉を顰めた。
「勿体ないなぁお兄さん……恋っていうのはねぇ…」
 最早、面影を落とすことよりも、彼のその無知を少しでも改善しようという方向に意識が向いている様だ。
 確かに、恋を知らない相手に無理やりその感情を強制したところで不毛な話に終わるだろう。
 訥々と語る相手の言葉に耳を傾けはしながらも、あくまでも集中力は目の前のコーヒーに向けながら、面影はその時も出来うる最大の技術で仕事をやり終えた。
「ブレンド、お待たせしました。良い時間を」
「…ありがと」
 かちゃりと小気味良い音を立てながら差し出された、ソーサーに乗せられたコーヒーカップの中からは芳醇な香りが立ち昇っている。
 ほんの少しだけ薄暗く調光された店内では、幾人かの客人たちが各々の席に座って静かに安らぎの時間を過ごしていた。
 これ以上相手に取りつくのは流石に野暮だと理解していたのか、女生徒は小さくお礼を言ってそれを受け取ると、先に確保していた席へと戻っていった。
(……恋、か…)
 ぼんやりとその単語の意味を考えながら、面影は使い終えた器具の洗浄をするべくそれらを持ってシンクへと向かって行った………


 とある日の夜……暑くも寒くもない過ごしやすい気候の時期だったその日は、雲一つない月夜だった。
 もうすぐラストオーダーの時間だな…と思いながら面影はぐるりと首を巡らせて店内の様子を窺う。
 今日は客入りが今一つで、今この店の中には自分以外誰も居ない。
 オーナーがそろそろ店を閉める為に来る頃だろうが、それまでに器具などの片づけを済ませておこう…と、かたんとカウンターで彼が立ち上がった時……

 からん………

「いらっしゃいま……」
 どうやら客が来たようだ…おそらく今日の最後の客になるだろうその人物を振り返って見た瞬間、ぴし…っと面影が彫像の様に固まった。
「………え?」
「こんばんは」
 懐かしい顔……そうは言うが、見たのは一度だけ、本当に一度だけだ。
 こんな美麗な男は自分でなくても決して忘れる事など出来ないだろう。
 しかし、自分が覚えているだけで向こうはもうこちらの事を覚えていない筈だ。
 自分達は友人どころか知人とも呼べない、他人同士に過ぎないのだから……
 それは自分が一番よく知っているのに、そんな他人相手に、どうしてこんなに胸が……痛い程に…
 
『恋っていうのはねぇ、顔を見ただけで胸が高鳴って……』

 何故かこのタイミングでいつかの女生徒の声が蘇り、響いてくる。
 そんな面影の都合は当然関係なく、現れた客人はきょろ、と店内の様子を窺いつつ尋ねた。
「…まだ、やっているのか?」
「は、はい……ラストオーダーになってしまいますがそれでも宜しければ。お好きな席へ…どうぞ」
 急に騒がしくなった自分の胸を左手で抑え込みながら、ゆっくりと右手を掲げて相手を促すと、向こうはにこ、と笑みを深くして店内へと入って来た。
 軽く首を巡らせて店の中の様子を窺っていたその客人は、外を眺める事が出来る大きなガラス窓が誂えられている壁際の二人席を選んだらしく、そちらへと歩を進めていく。
 この時間になると窓を介して外の景色を楽しむ事は難しいかもしれないが、街灯ぐらいしか見るものがないこの裏路地でも趣を感じる事は出来るのかもしれない。
 そのまま小ぶりな丸テーブルの上に脇に抱えていたビジネスバッグを置くと、美の化身は踵を返して面影が佇んでいる注文カウンターへと歩み寄ってきた。
「此処のお薦めの飲み物は何だろうか?」
 するりと彼の口から滑り出る言葉は意図していなくても艶めいていて、こんな暗めの照明の中だと腰にまで響いてきそうな程だ。
「あ……はい、今はこちらの特別に仕入れた豆を使った…」
 カウンター脇に立てかけられていたメニュー表を取り出して目的のページを開き、訥々と説明を始めながら、面影は自然体を装いながらちらりと相手の男の顔を見つめた。

『目が離せなくなって……』

(……夜の…いや、月の神みたいだ……)
 客人のさらさらとした黒髪が店内の照明を受けて見事な天使の輪を作っている。
 肌は磁器の様に滑らかで白く、その双眸は冬天の三日月を宿した様に澄んだ輝きを秘めていた。
 それらが真っ直ぐにこちらを見つめてくるだけで、天敵に見据えられた野兎の様に身体が固まってしまう。
(駄目だ……ずっと見ていたら怪しまれる……)
 理屈では分かっているのに、目を奪われるというのはこういう事を言うのだろうか……?
 これまでも何度も何度も繰り返してきて慣れている筈の説明なのに、初めてそれをした時の何倍も緊張してしまっているが、何とか動揺を押し隠しつつ、面影は最後まで噛まずに説明する事が出来た。
「…うん、ではそれを一つ」
 説明を聞いた相手はその内容に満足したのか、にこ、と更に笑みを深めて注文を入れてきた。
「はい、承りました。少々、お待ちください」
 淡々と会計を済ませた後、早速淹れる作業に入る。
「…出来上がりましたら、席へお持ちしますよ?」
「いや……出来るまでを見るのが好きでな…迷惑だろうか?」
「いっ、いえ…!」
 慌てて首を振って否定する。
 迷惑ではない、ただ…こちらの心臓がちょっと…かなり困ったことになるだけで。
(………見ている…)
 背中を向けていても、相手がこちらの様子を窺っている気配を感じるのは、おそらく自惚れではない。
 人は個人差はあれど視線を向けていなくてもその場の状況を察知する事ができるものだ。
 町並みでふと視線を感じて振り返ってみると、誰かのそれと合ってしまうというのが丁度よい例だろう。
 粉の準備をした後は、サイフォン等を扱わないといけないのでどうしてもカウンター越しに相手と相対しなければならない。
 いつも通りやれば良いだけだ、何も心を乱す必要はない……
 ロートにフィルターをセットしている間にフラスコの中のお湯が音を立てて沸騰してくる。
 コーヒーが出来るまでの間、暇なのだろう客が淹れるまでの手順を眺めてくる事はよくある事だし、今更それに緊張する事も無かったのに、彼の視線を浴びている事実を認識するだけで身体ががちがちに固まってしまいそうになる。
 さして面白いものでもないのだから、そんなに見ないでくれ、と気軽に言える間柄なら良かったのだが、当然ながら客に対してそんな事は言える筈もない。
(……集中しなきゃ)
 相手の視線を感じた所為で失敗するなど言語道断。
 雑念を振り払う様に小さく首を左右に振ってから、面影はコーヒーへと視線を戻し、心を無にして作業に集中する。
 幸い身体に染み付いている作業なので、無心でも問題なく手は動いてくれていた。
「……綺麗だ」
「っ…」
 不意に話しかけられ、一瞬ロートの中を掻き回していた手が止まる…が、直ぐに取り繕う様に再度手を動かし始める。
「ええ…見ていると落ち着きますよね」
 フラスコ内で踊る液体の事を言っているのだろうと思い、自分も頷きながら同意し、タイミングを見計らってフラスコの下のバーナーを横へと移動させた。
 ずっと相手の視線がフラスコではなく自分に向けられていた事には気付かないまま。
 それから、出来上がった褐色の液体がフラスコに降りてきて、それらが面影の手によって白のコーヒーカップに注がれるまで、二人とも何も言わなかった。
 かちゃ、かちゃ………
 ソーサーの上にカップを乗せて、よく磨かれたスプーンを脇に添えて………
「お待たせしました」
 そっと出来上がったコーヒーを相手に差し出しながら、少し考えて付け加える。
「……短いですが、良い時間を」
 短いと言うのは、当然、ラストオーダーも過ぎて閉店時間が近かったからである。
 それは訪れた客側の都合であり店には何の責任もない筈だが、それでも若者はあまりゆっくりとさせてあげられない事を申し訳なく思う様に僅かに愁眉を寄せていた。
「……」
 まさかそんな声を掛けられるとは思っていなかったのか、黒のコートを羽織った客人は僅かに瞳を見開き面影をまじまじと見下ろした後、心底嬉しそうに笑った。
「有難う」
「……っ」
 ただ笑っただけなのにどうしてこんなに目を惹きつけるのだろう、まるで美術館に厳かに展示されている名のある美術品の様に…
 応える事も出来ずにそのまま硬直した面影の手から、向こうがコーヒーをソーサーごと受け取ろうとしたところで、意図してか否か、二人の指先がささやかに触れ合った。

『手なんか触れ合おうものなら、きゃーーーーってなっちゃう』

「あ……」
 『ちょん』といった感じの本当に僅かな感触だったのだが、明らかに接触したのだと理解した途端、面影の顔に朱が差していく。
 それは本人も顔に感じた熱で知るところとなり、慌てて自らの手を引いて相手の指から離しつつ焦りを帯びた声で詫びた。 
「す、すみません…!」
 その動揺はコーヒーの水面に微かな細波を立てたものの、向こうの男は既にしっかりとソーサーを受け取っていたので、コーヒーが溢れるなどの事故には至らなかった。
 正直、『きゃーーーーー』どころか、『うわあああああああ』レベルの動揺だったのだが、抑えた自分を誰か褒めて欲しい。
 気を悪くさせたかと不安になったものの、男は何とも感じていないのか、笑みを絶やす事なく返事をしてくれた。
「いや、問題ない」
 そして続けて何かを言おうとしていたが、結局それは言葉として述べられる事はなく、彼はそのまま踵を返して自分の取っていた席へと歩いて行った。
「?」
 何か言いたい事があったのだろうか、と気にはなったが、一度離れて行った客にわざわざ追いかけて尋ねる事が出来る訳もない。
 面影は少しだけ名残惜しそうに相手の離れていく姿を見た後に、自らも背を向けて、使用済みの器具達を洗う作業を始めた。
 外に出している看板にしっかりと営業時間が記載されている事もあり、もう店のドアを向こうから潜ってくる客は誰もいない。
 微かに聞こえる有線のオルゴール曲…そして面影が片付けをする音のみが空間を満たしていく。
 シンクでの洗い物が済んだ後は、今日もよく働いてくれたサイフォン達を丁寧に棚の中へと納めたりしていた面影は、ホールに身体を向ける度にただ一人の客人の様子をこっそりと窺っていた。
 適度な反発感がある背もたれに身を預け、あの長身痩躯の男は優雅な動きでカップの取っ手に指を掛けると少しだけ中身を口に含む仕草をし、そのままそれらをテーブル上に置いた。
 そして両手を組むと窓の方へと視線を遣り、ずっとその姿勢を保っていた。
 時折コーヒーに手を伸ばす事はあるものの、何らかの作業をするでもなく沈黙を守るのみ。
(……この時間だし、仕事終わりに立ち寄ったのかもな……疲れているのかもしれない)
 では、極力邪魔はしないでおこうと自分もあまり大きな音は立てないように気をつけながら、面影は粛々と片づけの仕上げに取り掛かる。
 そんな二人だけが存在する店がいよいよ閉店時間間際になった辺りで、店の裏口が勝手に開いたかと思うと、老齢の男性が顔を出した。
「! オーナー」
 店のオーナーがいつもの様に鍵を持って来てくれたのを見て、面影は軽く会釈して彼を迎える。
「お疲れ、今日も有難うよ」
「はい。これ、レジの鍵と、売り上げです」
「うん。いつもすまないね。君が来てから店の方も順調だし、安心して任せられる」
 オーナーは白髪交じりの身なりの整った男性で、見るからに柔和な性格を思わせる穏やかな顔立ちだった。
 バイトとして雇い入れた面影の働きぶりには十分に満足してくれているらしく、破顔しながら彼の差し出してくれた布ポーチと金属製の鍵を受け取った…ところで、最後の客人の存在に気付いておやと小さく声を上げた。
「珍しいね…この時間まで」
「ええ…」
 オーナーが来てからの二人のやり取りを向こうも聞いていたらしく、窓の向こうを凝視していた視線が今はこちらを向いている。
「オーナー、後は鍵閉めまでやっておきます。明日も私が先に入りますから、鍵も預かっておいて良いですか?」
「そうかい? なら頼んだよ」
 面影の促しを受けてオーナーは店の鍵を面影に渡して、再び裏口の向こうに消えて行った。
 悩む素振りもなく一連の連携を取っているところから、面影のオーナーからの信頼はかなりのものらしい。
「………」
 裏口のドアが閉められた音を切っ掛けにそろそろ切りの良い時間…そしてこの店の閉店時間である事を察したらしく、彼は殆ど空になっていたコーヒーカップをソーサーに乗せたままカウンターに歩み寄ってきた。
 テーブルに取りに来る手間を省いてくれる為にここまで持参してくれたのだろう、その黒の男は相変わらず優しい光を宿した目を向けてきて、面影を見下ろしてくる。
「あ、す、すみません、わざわざ…」
 慌てて面影は相手からカップ一式を受け取った……今度は指が触れ合わない様に気を付けて。
「いや、長居をさせてもらった……とても、美味しかった」
「有難うございます」
 そんな会話を交わしてから数秒……二人の間に沈黙が流れる……
「?」
 ずっとその場から離れようとしない相手を訝しく思い、そっと遠慮がちに彼の顔を見上げると、恐怖すら覚える程に美麗な笑顔でこちらを見つめていた彼と目が合った。

 どき……っ

(ちょ……っ、と……これは…困る…)
 元々感情の起伏が分かりにくい性格だと指摘された事はあったし、ある程度のポーカーフェイスは保てる自信もあった。
 しかし、ここまで規格外の美貌を持つ相手が容赦なく迫って来ると、流石に多少の動揺は避けられない……
(どうしよう、早く離れてくれないと顔が赤いのがばれる……!)
 照明が暗くても、こんなに熱を感じてしまっている程だと誤魔化せないかもしれない。
 初対面…しかも客に対してこんなに怪しい反応を返してしまったら、変質者などと誤解を受けてしまいかねないのでは……!
(いや、決してそういうつもりでは……そもそもこの人はたまたま偶然ここに立ち寄ってくれただけだろうし、この場だけの縁ならどう思われてもどうでもいい……筈…)
 どうにかしたくて、しかしどうにも出来ない状況に頭の中がぐるぐると混乱する中、面影は幾度も矛盾する事を考えていた。
 どうせまたこの場だけで切れる縁の筈……なのに、どうしてだろう、この男とだけは縁を切りたくないと叫ぶ自分がいる………
 これまで誰からもどう思われようと意に介していなかったのに…彼の前でだけは、見苦しい姿を晒したくないと思ってしまう……
(どうしよう……ええと、ここは無難に…)
「元気そうで良かった」
「は……?」
「ここで働いていたのだな」
「!!」
 親し気に話しかけられ、思わず俯いていた面影がばっと顔を上げて相手と真っ向から視線を交わす。
 先程まで感じていた緊張よりも寧ろ驚きが勝り、今だけは気負いなく男の視線を見返す事が出来た。
(覚えて……くれていた…?)
 あの日、電車で倒れかけた時に助けてくれたのがこの男だった。
 単なる空腹と過労からくる一時的な体調不良だったのだが、彼は心底心配そうに自分に付き添ってくれて、名刺までくれていた。
『困った事があれば、必ず連絡をくれ……これも何かの縁だ、助けになれるかもしれない』
 妙に必死な表情でそんな事を言いながら、名刺を差し出してきた時の事はよく覚えている。
 きっととても親切な人なのだろう、見ず知らずの自分の世話をする為に電車まで降りてくれた人だ。
 そう信じてはいたが、結局、それから個人的な連絡をする事はなかった。
 気持ちは有難かったが、やはり赤の他人に図々しく連絡を取る事は心情的に憚られたのだ。
 それに、危険が潜んでいるかもしれない他人との接触を避けるという自衛的な意味もあった。
 勿論、最低限の礼儀として名刺に記載されていた住所に御礼の手紙は送っているから、礼を失していた訳ではないと認識している。
 もう彼の様に心惹かれる様な人間に会うことはないのだろうな、と少し残念に思いながらも、これが最善の決定であると己を納得させて、名刺は大事に自宅の机の奥に仕舞いこんだのだ。
 それがまさか、こんな形で再会する事になろうとは………!
(まさか……私の事を探していた…?)
 非常に都合の良い予想が一瞬脳裏を過ったが、それはあり得ないと即座に否定する。
 別れてからお礼の手紙を送りはしたが、それからも自分の周りに彼の気配など一切感じなかった。
 こんな何の取柄もない存在の自分を手間暇かけて探すなんて余程の変わり者だ、そもそも何のメリットもない。
 他にも色々と考えるところはあったが一応の着地点として、相手は偶然にこの店に来て、たまたま自分の事を覚えていてくれたのだろうという結論に至った面影は、あの時の感謝を示すべく深く頭を下げた。
「…その節は、本当に助かりました」
「手紙を受け取って、息災なのは分かっていたが……どうしているのか心配していた」
「お心遣い有難うございます……見ず知らずの立場で甘えてしまって、不快に思われたくなかったので…」
 今の発言は真実である。
 頼りたいと思う気持ちが全くなかったと言えば噓になる、事実この男は何故か縋りたくなるような…そんな不可思議な安心感を齎してくれる雰囲気があった。
 しかし、もし安易に縋ってしまい、それを相手が重荷に感じてしまったら……そんな不安がこれ以上相手に近づく事を許さなかった。
 嫌われてしまう…その不思議な恐怖が何より強かった。
「…では」
 少しだけ遠慮がちな声で、向こうの美丈夫がこちらを窺う様に尋ねてきた。
「……その……俺の申し出が迷惑だった訳では、ないのだな?」
「え?」
 余りにも意外なその質問に面影はぱちくりと珍しくその瞳を限界近くまで見開き、心の中で反芻する。
 迷惑?
 この美しく優しい男の心遣いが?
 理解した直後に面影は激しく首を左右に振ってその可能性を否定する。
「いえ! そんな事は決して!…………寧ろ…私などには…過ぎたお心遣いで…」
 そんな面影の言葉を聞いた相手は、ふ、と瞳を伏せながら視線を横に逸らし…若者にも聞こえない微かな声で呟いた。
「……ああ……お前は相変わらず……」
「え?」
「いや、何でもない」
 ふるっと頭を振った男の動きに倣い、その美しい黒髪が揺れるのすら目を惹いてしまう。
 密かに見惚れていた面影に、彼は何処か安堵した様な笑みを浮かべながら別の問いを投げ掛けた。
「………また、此処に来てもいいだろうか?」
「え?」
 本当に……何故そんな質問が来るのかが分からない。
 こちらは客が来ないと成り立たない店側の人間で、あちらはまごう事なきその客である。
 迷惑行為を行わない限り、店側から客人を拒絶する事はないのに、どうして彼はそこまでこちらに気を遣っているのだろうか?
 疑問は尽きないが、今は取り敢えず相手の不安を払拭してあげるべきだろう。
「勿論…いつでも歓迎します」
「そうか………良かった」
 心からそう思っているのだろう微笑みを浮かべ、美しい客人は席へと戻ると手早くバッグを抱えて扉へと向かう。
「ではな……おやすみ、面影」
「!……あ、ええと………おやすみなさい………三日月、さん」
 その日、面影は初めて彼の名を呼んだ。
 前に名刺を貰っていたのだ、彼の名は受け取ったその日に既に知っていたが、今日は客とバイトとして出会っただけである。
 向こうがこちらを認識していないのなら名を呼ぶ事が却って不審感を覚えさせてしまうかもしれないと、敢えて初めて会った風に振る舞っていたのだが、向こうがこちらを記憶していて名を呼んでくれたのだから、呼び返すのはおかしい事ではないだろう。
「…三日月、でいい。堅苦しいのは苦手なのだ」
「!…でも…」
「俺も面影と呼ばせてもらうのでな。ではな」
「あ…」
 返事を待たずに出て行ってしまったので、これ以上呼び方について問答する事は出来なくなってしまった。
 おそらく彼にまた会った時、相手は間違いなく自分を『面影』と呼ぶだろうし、それを理由に自分が彼を『さん』付けで呼ぶ事は許さない事も容易に想像出来る。
 もしかしたら相手は最初からそれを狙っていたのかもしれない。
 そして久し振りに、店の中には自分一人だけという環境が戻ってきた。
(本当に…………今日は、おかしいな…)
 彼がこの店を訪れてから、これまでの自分では有り得なかった事象が起こり過ぎている。
 あの昼間の女性客が語った言葉が何度も頭の中を巡り、三日月の一挙手一投足にばかり目がいって……まるで…………
(っ……!!)
 そこで脳裏に浮かんだとある考えに、面影は激しく動揺して否定の声を心中で上げた。
(違う………そんな事、あり得ない……私が……)
 『そういう感情』を抱く、なんて…………
 しかもほぼ初対面相手となると………それは最早、一目惚れという類のもので……………
(何だ、これ………)
 自分はこれまで愛も恋も経験した事がない。
 だから今の自分が抱いている感情が、動悸の理由が分からない。
 人は初対面であっても本能的に相手が敵か味方かが分かるという…では彼は?
 三日月は最初から最後まで好意的に接してくれていたし、自分もそんな相手に対しては警戒心や攻撃意思など微塵も感じていない。
 という事は、この動悸は敵に対する緊張感や防衛本能からくるものではなさそうだ。
 もしかして、昔会った事がある人物なのだろうか……電車で助けてもらったその前から実は見知った人物で、こちらだけが忘れてしまっているとか…?
 いやそれはないだろう、もしそうなら向こうがとっくにその事実を伝えてくれている筈だ。
 三日月は電車での事は覚えていてくれたが、その前から自分を知っていた様な素振りはまるで見せなかった。
 そんな…赤の他人である筈の相手にここまで心が揺れてしまうなんて…理解不能だ。
 少なくともこれまで生きてきた人生経験の中からは、その答えを見つける事は出来そうにない。
(……でも、いつかは分かるのだろうか……?)
 三日月は、どうやら今後もこの店に足を向ける気持ちがあるらしい。
 それがどれ程の頻度になるか分からないし、自分がバイトに立っている時のタイミングになるのかも分からない。
 それでも、これから彼が通う内にこの感情に名前が付く時が来るのだとすると………きっと自分はそれを粛々と受け入れるしかないのだろう。
 しかしどんな結果に落ち着いたとしても、どうかあの人が傷付く様な事にならなければ良いと思う。
 何の縁もない自分にすら、あんな穏やかな笑顔を浮かべる事が出来る優しい人なのだろうから…………




 店を後にした三日月はほんの少しそこから離れた路地裏で、古いビルの壁に背を凭れさせて深く深く息を吐き出していた。
「…………ああ」
 万感籠った声が漏れ、その両手で顔を覆う。
「……会いたかったぞ………面影」
 この身に転生を果たしてから、ひたすら探し回り求めていた愛しい男……
 神気を辿れば容易に見つける事が出来た過去と異なり、人の身に成ってしまえばそれも叶わなかった。
 それでも、挫ける暇もなければ諦める選択肢もなかった。
 そもそもあの男と共に生きている時間こそが自分にとっての『人生』なのだ、半身がいなければ何の意味もない。
 今生が尽きるまで探し続け、それでも見つけられなければ、来世があるのならそこで仕切り直せば良い話だ。
 そうして探して探して、ようやくあの日、偶然にも乗り合わせた電車で懐かしい顔を見つける事が出来たのだ。
 向こうも電車内にいるのだから何処にも逃げ場がないのに、それでも逸る心も足も止める事が出来なかった。
 そこそこに混んでいた電車内で人混みを掻き分けて傍に近寄り、相手がこちらに視線を向けた瞬間、予想外の事が起こった。
「……っ」
「え…?」
 名前を呼ぶ間もなく、呼ばれることもなく、前触れもないままに目の前で面影が卒倒してしまったのだった。
 ひゅっと自らの息が止まる音を聞きながら、それでも執念の全てを向けていた相手の異変に三日月は即座に対応した。
 面影の身体を横抱きにして電車から降り、駅員の誘導の手も借りて構内の救護室に運び込んだ。
 その淀みない動きに、居合わせた乗客達は二人を『友人』か『知己』の様な間柄だと誤解していただろうし、そのお陰で余計な騒動を未然に防げたのも不幸中の幸いと言えただろう。
 更に幸いと言うべきか、最寄り駅に降ろされた面影が意識を取り戻すまでには僅か数分で済んだので、救急車を呼ぶまでには至らなかった。
 本人がそれを強く拒絶したという理由もあったのだが。
 しかし、それからすぐに別の問題が三日月の目前に立ち塞がる。
 意識を取り戻し、相手を覗き込んでいた自分と目が合った時に、彼は予想もしていなかった言葉を投げかけてきたのだ。
「……誰…?」
 その時、自分がどんな表情をしていたのかは記憶がない。
 かろうじて、面影の胸倉を掴んで揺さぶりたくなる衝動を必死に抑え込んで、平静を装っていたのが、己の限界だった。
 もしかしたら倒れた後で一時的に記憶が混乱しているのでは…と淡い希望を抱いてもいたが、その後のやり取りで残酷な事実は明らかとなる。
 彼は……面影は、転生前の記憶を完全に失っていたのだ。
 それを認めた時、三日月の脳裏に浮かんだのは失望や悲哀ではなく、再び彼を自分の傍に置くための策略だった。
 記憶を失ったならば、それは仕方ない。
 ならばもう一度やり直そう……俺達が出会ったところから。
 記憶を失った相手にいきなり接近するのは悪手かもしれない……何しろ面影にとっては今の自分は恋人ではなく、ただ偶然に出会ったばかりの赤の他人。
 そんな相手にずけずけと遠慮なく近寄られたら、警戒心が強かった彼は今生でも必要以上に拒絶してしまうだろう。
 出会ったばかりの愛しい男とすぐに別れるのは断腸の思いではあったが、ここで急いてしまっては出会った奇跡を無駄にしてしまう。
 すぐにでも彼を抱き締め、連れ去ってしまいたい衝動を必死に抑え込み、三日月は先ずはささやかな繋がりを結ぶために自分の名刺を彼に渡した。
 そして、その代償として相手の最低限の情報を得る事に成功したのである。
 体調不良だったところに手を貸し、回復するまで傍で見守ってくれた恩人が『念の為』と連絡先を聞くのはまぁそこまでおかしな事ではないだろう。
 面影も同様に思ったらしく、特に不審に思う事もなくそれらを伝えてくれた。
『これも何かの縁だろう。もし何か困った事があったら、すぐに連絡をしてほしい』
 転生前の彼の性格から、こうして名刺を渡しておけば捨てることなく手元には置いておく筈だ、それによって二人の間に小さいが確実な架け橋が出来る。
 そこからは、ある意味三日月にとっては拷問の様な時間だった。
 一日、一日、ただ只管に面影からの連絡を待つだけの日々。
 今日は流石に早いか、明日はどうだ、と相手からの連絡を待ち続けた彼の元に、面影からの礼状が手紙として届けられたのは五日後のこと。
 細字のペンで流麗な文字で綴られた文を目にした時、三日月は改めて彼が面影の転生後の姿であるのだと再認識する。
 あの本丸での日々の中で、幾度も目にした彼の筆癖がしっかりと表れている。
 礼だけならば簡単にメールなり電話でも済んだだろうに、しっかりと手紙という形にして送るのも細やかな性格の若者らしい。
 しかしその手紙の中にも、心からの感謝の念を込めた言葉は十二分にあったものの、最後までこちらに縋るどころか近付こうという様なものは一切無かった。
 相手からの接触を待つ間、三日月とて何もしていなかった訳ではない、とある筋の調査機関に面影の事を徹底的に探らせていた。
 そんなに気になるなら自分で調べたら良いと突っ込まれるかもしれないが、もしこんな状態で再び彼に会えば、今度こそ自制が効かないままに全てを語ってしまいそうだった。
 だからこそ他人に調べさせ、面影本人が知らない内に彼の近況なども含めて全ての情報を手にしたのだが………
(…… やはり、俺が行くしかないか…)
 礼状を受け取り情報を手に入れて更に一週間以上の時間が経過しても相手が礼状以外の接触を図ってこなかったのを見て、三日月はいよいよ自身が動くことを決めた。
 今生の面影は天涯孤独の身の上であり、今も決して裕福な生活をしている訳ではない。
 あれだけの容姿をしているのに、敢えて人目につかないような隠れ家的な喫茶店で働き、隠者の様な生活を送っているという。
 名刺を渡した以上、向こうもある程度こちらの社会的立場については理解している筈だが、今まで一切こちらに近付こうという動きを見せないという事は………
(……他人に頼る気も媚び諂う気もない、という事だな)
 こうなる事は予想していた……だから期日を決めていた。
 あまり再会までにも時間を置いてしまうと、これもまた声を掛けるのに不自然になってしまう。
 出会った時からそんなに時間が過ぎておらず、まだお互いの記憶がかろうじて残っているか否かの時期……
 だから『今』が好機とばかりに、三日月は面影の働く店に向かったのだった。
 久し振りに会える時間を誰にも邪魔されたく無かったから、訪れるのは閉店間際の時間帯を狙った。
 あまり長時間居座るのも不審者と捉えられかねないので、ある程度見知った仲になるまでは過度な接触は控えようと決めて、三日月はいよいよ店の扉をくぐった。
(……面影)
 果たして、そこには焦がれた男が奇跡の様に存在していた。
「いらっしゃいま……」
 歓迎の言葉が途中で立ち消え、向こうが驚いた様子でこちらを凝視している様子に、一先ずは安堵する。
 どうやら、相手は自分の事を覚えてくれている様だ………忘れていたとしても思い出させる気満々だったが、手間が省けたのは有難い。
 看板からも既に分かっていた事だが、改めてまだ店がやっている時間帯である事を確認し、席を選ぶ。
 直に眺めてしまうとそれこそ目が離せなくなりそうだったので、窓の近くを選んだ。
 此処なら、窓に反射して映る相手の姿を遠慮なく見つめる事が出来るからだ。
 そうして面影のいるカウンターに近づいて何気ない質問をしながら久し振りの会話を楽しみ、コーヒーを注文する。
 出来上がったら席に運ぶとも言われたがさり気なく辞退した。
 近くに彼を感じられる姿を見つめていられる僅かな機会まで手放す程、自分は無欲ではない。
 手際良く作業している様子から、確かにこの店で働いて相応の時間が過ぎたのだろう事が窺える、全てに於いて淀みがない。
 その流れる様な動きに思わず感嘆の声を漏らしてしまったが、向こうはそれを己に対する賛辞だとは気付かなかった様だ。
 それからも彼のコーヒーを淹れる作業は続き、最終的に芳醇な香りを放つそれがカップへと注がれ、ソーサーの上に乗せられた状態で手渡された。
 その時に不意に互いの指先が触れ合い、確かな感触と熱に、自身の瞳が潤みそうになった。
 恋する者が懸想する相手とこうなれば、皆、同じ様に胸が震え、泣きそうになるのだろうか?
(………ああ、生きている)
 この時代に生まれた以上、もう彼があの大太刀を振るう姿は見られなくなったのだろう、しかし今こうして彼が健やかに生きてくれているだけでも自分にとっては十分だ。
 そんな心中を悟られる事なく、彼は大人しく席へと戻り、当初の目的通り面影の動く姿を窓の反射を通して見つめる。
 時折、かちゃかちゃと面影が器具を片付ける音が聞こえてくる。
 互いが何も言わない、静かな時間だけが流れるこの空間は、三日月にとっては馴染みがある様でないものだった。
 転生前にもこうして互いに季節の巡りを感じ、敢えて言葉を交わさず心穏やかに過ごすひと時もあった。
 しかしそれはあくまで互いが互いを知り、愛おしく想い合っていたという前提の話だ。
 向こうがこちらの記憶を全く失くした上での無音の時間は……やはり多少落ち着かないものがある。
(けれど、いつかは……)
 いつかはあの日々の様に、また互いに寄り添い生きていく事が出来るのだろうか……いや、してみせる。
 そう固く誓いながら、面影が淹れてくれたコーヒーを口に含むと、切れのある苦味の奥に微かに果実の様な風味が踊った。
 何となく相手に似ているな、と思い微かに笑みを浮かべながら、三日月はゆっくりと閉店間際までその味を楽しんでいた。
 しかし、そんな心地よい時間もいずれは終わりが来る。
 店のオーナーらしき人物が現れた事を契機に、あまりぎりぎりまで居座っては片づけをしなければならない面影に悪いと冷静な判断で、三日月は飲み干したコーヒーカップをカウンターへと運んで行った。
「長居をさせてもらった……とても、美味しかった」
 もう別れなくてはいけないのか……
 記憶が無い以上、過剰な接触は避けるべきだと三日月は当たり障りない言葉をかけてそのまま暇を告げようとした…が、すぐ傍に佇む面影を見ている内にどうしても我慢が効かなくなり、つい話しかけてしまった。
 指先が触れ合った時には耐えられたのに……抑えられなかった。
「ここで働いていたのだな」
 その呼び掛けにはっと面影が顔を上げた反応で、元々店に入った際の彼の態度で自信はあったのだが、これで改めてはっきりした、彼は間違いなく自分を覚えてくれている。
 しっかりと目で見て確認したところで、三日月の心にまた別の不安が湧き上がった。
 覚えていたのに手紙以外の一切の連絡を取ろうとしていなかったのは……こちらの申し出は迷惑だったのだろうか、それともそんな事に思い至る事もない程に、自分には興味がなかったという事なのか?
「…その節は、本当に助かりました」
 改めて丁寧に礼を述べてくれる面影の肩に手を伸ばしたい欲求を必死に抑えながら、三日月は飄々とした態度を崩さず、若者を気にかけていたのだという事を伝える。
「手紙を受け取って、息災なのは分かっていたが……どうしているのか心配していた」
 嘘偽りない言葉はそのまま真っ直ぐに相手の心に届いたらしい。
「お心遣い有難うございます……見ず知らずの立場で甘えてしまって、不快に思われたくなかったので…」
 返された理由も、その場凌ぎの言い訳ではないのだろう、面影の視線は真っ直ぐにこちらを見つめてきている。
 ああ、懐かしい……そう、こうやって、お前はいつも真っ直ぐに俺を見つめ、真っ直ぐな言葉を投げかけてくれていたな……
 ならば今も……今の俺の不安にも、正直に答えてくれるだろうか?
「……その……俺の申し出が迷惑だった訳では、ないのだな?」
 もしかしたら少しだけ不安が滲んだ声だったかもしれない、が、その時はそれすら分からない程に緊張していた。
 こんなに胸が不安にざわつくなど何百年振りの事だろう、正直、過去のその理由など覚えてもいない程なのに。
 しかし、そんな男の心配を完全に払拭する様に、相手は即座に否と返事を返してくれた、それどころか身に過ぎた申し出だったが故に返せなかったのだとも。
「……ああ……お前は相変わらず……」
 そうやって常に一歩身を引いて、決して驕らず、慎ましく生きているのだな。
 明らかに転生前の面影の素養を悉く受け継いでいる目の前の若者の様子を見て、三日月は一つの決断を密かに下す…いや、決断というよりも自分に対しての再確認と言った方が正しいだろうか。
(…やはり一刻一秒でも早く、俺の手に取り戻さねばなるまい)
 その瞳の奥に危険な光が宿る。
(こんな……こんな美麗で素直で思い遣りにも溢れた男が人気でない訳がない、早く俺の手中に収めて隠しておかねば何処の馬の骨とも知れぬ輩に奪われてしまう。何が何でも、絶対に、どんな手を以てしても、必ず俺だけのものにしてみせる……!)
 思考もかなり危険で物騒なものだったが、心の中でしか呟いていなかったのが幸いし、本心を面影に気取られる事はなかった。
 もし相手に聞かれていたら………あれだけ三日月にべったりだった若者だったとしても、流石にどうなっていたか分からない。
 その後の、またここに来たいというさり気ない要望に対して、歓迎します、と無防備な一言を返してくれたかどうかも………
 無垢な若者の優しい言葉に嬉しそうに微笑み、三日月は暫しの暇を告げるべく挨拶の言葉を述べた。
「ではな……おやすみ、面影」
 かつて夜毎に交わしていた挨拶だった。
 廊下で告げた時もあれば、布団の中で抱き締め眠る彼の耳元で囁いた記憶もある。
 相手もおやすみと返してくれたが、自分のことを『さん』付けで呼んできた事には少しばかり不満だったので、そこは三日月呼びにする様にと念を押した。
 互いの名を呼び合ったあの頃を此処からまた始めるのだ………
 決意を胸に、三日月は店を出た。
 そして昏い道を一人歩きだす。
 次はいつ此処を訪れようか……きっと彼はまた同じ優しい笑顔を浮かべて迎えてくれるだろう。
 けれど今はまだ、その笑顔はただの客相手のものに過ぎない。
 必ずその精巧な仮面を外し、本心からの笑顔を自分だけに向けさせてみせる……!
「さぁ、待っておれ……愛しい男よ」
 斯くして、美しくも恐ろしい月の神は、唯一執着を見せる男を手に入れるべく動き出したのだ。
 この時代に転生して以降、どんな事象に対しても興味も示さず指先一つすら動かそうともしなかった男は、ようやく真の身体を得た様に、軽やかな足取りで宵闇の中へと消えて行った………