肩こり





 「ふぅ…」
 とある昼下がり
 面影は座敷で割り当てられた座布団に座りながら、肩を回しつつぐりぐりと首を回していた。
 目の前にはうず高く積まれた書類の山。
 隣では、同じく書類山を迎え撃っていた長谷部の姿がある。
「疲れたか? 面影」
「いや、大丈夫………と、言いたいところだが」
 はふ……と珍しく疲労を滲ませた溜息を零し、面影はまじまじと自身の両手を掲げて掌を見つめた。
「正直、こういう類の疲労は初めてだ……その…戦闘時の疲労とはまるで違う…」
「ああ、まぁそうだろうな…俺達刀剣男士は元々は刀が本体だ。戦闘こそが本領発揮の場なのは言うまでもない……俺もまさかこんな事務作業をすることになるとは、刀の姿の時には夢にも思わなかったが……」
「………ええと」
 同じく溜息をつきそうな相手の様子を窺い、面影は掌から視線を外しつつちょっと悩んで遠慮がちに答える。
「き…貴重な体験をさせてもらっていると思う……」
「すまんな、言葉を選ばせてしまって」
 失言だった、と長谷部が更に深く眉間に皺を寄せて詫びたところで、その部屋に燭台切が盆に湯のみと羊羹を乗せて現れた。
「二人ともお疲れ様。少し休憩したらどうだい? 美味しいお茶菓子も持ってきたよ」
 燭台切の言葉に長谷部がちらりと部屋に備え付けられている壁時計に目を遣ると、丁度三時を示していた。
 丁度ここにある書類は全て片付けたし、ここで小休止を取るのも良いかもしれない。
「そうだな、そうしようか……有難う、燭台切」
「有難う」
「どういたしまして」
 湯呑みと羊羹が乗せられた丸皿をそれぞれ受け取り、二人は礼を述べた。
「最近は、長谷部くんと面影さんが事務仕事をしている事が多いけど……主の意向かな?」
 燭台切はすぐに退室する事無く、暫し彼らとの歓談に興じる事にした様だ。
「いや、今日は内番が早く終わったから臨時で手伝っていたんだ。事務仕事は、本丸の仕組みを理解させるのに良い経験だと主が仰って……だから、私も機会があれば手伝おうと…」
「…ああ、成程」
 面影は、これまで全く本丸という組織に関わらず単独で動いていた刀剣男士だ。
 政府との繋がりや他本丸との共同戦線の組み方、連絡等、戦場だけでは学べない事は多々あり、今長谷部と共に勤しんでいる事務作業もそういう教育の一環を担っているという事か。
「戦場とはまた別の苦労もあるだろう? 頑張ったね」
「ああ……新しい知識を知るのは面白いな。ただ、身体が鈍ってしまいそうなのが…」
 自分より長く同じ業務を引き受けている長谷部の手前もあるのだろう、語尾は濁しつつ面影はぐるぐると右肩を回してみせた。
「おや、肩こりかい?」
「肩こり……ああ、これが…?」
 自らの右肩を振り返りつつ納得したように頷くと、面影は長谷部へと顔を向けた。
「戦いに出ている時にはこんなにはっきりと感じる事は無かったんだが…」
「最近は戦闘活動もなかったからな……やはりあまり動かないのも宜しくないんだろうが…」
 そろそろ内番の手合わせも入れる様に進言しようか…と長谷部が考えているところで、燭台切がつと面影の方へと歩を進め、彼の背後に回った。
「? 燭台切?」
「ちょっと辛そうだね? 良かったらマッサージしようか?」
「マッサージ?」
「うん、ウチの本丸の皆も、ああ見えて結構血の気が多いからね。身体を動かさないでいると重く感じたり、筋肉が張ったりするみたいだから、よくマッサージとかしてあげてるんだ。僕のは特に鶴さん仕込みだから、腕にはちょっと自信あるんだよね」
「そ、そう……なのか?」
 確かに、この男のがっちりとした掌なら結構な力でマッサージを施す事が出来るだろう。
 それに、燭台切が所属している部隊の中では彼が確かに一番熱心にそういう事に取り組みそうだ。
 普段からも歌仙と並んで厨で皆の胃袋を掴むべく常に努力しているのだ、向上心の高さについては折り紙付きだろう。
「え……と…じゃあ…少しだけ」
 一度は遠慮しようかと思ったのだが、向こうが既にやる気満々でわきわきと両手を前に掲げて指を動かしている様を見ると、断る方が失礼にあたってしまう様な気がしてしまい、面影は勢いに負けて頷いた。
「うんうん、面影さんは見た感じ華奢だから、最初は弱い力でいこうかな」
 自らの手を眺めながらそんな事をぶつぶつ呟いている姿は最早それが本職の様にすら見えてしまう……
 背後に回られた面影は、何となく居住まいを正してマッサージを受ける準備を整えた。
「それじゃ、始めるね」
「ああ、頼む」




 それから少し時間が経過した頃……
 たまたまだったが内番姿の三日月宗近が彼らのいる執務室の脇を通り掛かろうとしていた。
 もし面影がその部屋にいると知っていたら、その歩の向きを間違いなく部屋の中へと向けていただろう。
 しかし、そこに面影が居るとは思っていなかった彼は、そのまま廊下を通り、喉を潤すために厨へと向かおうとしていたのだが……
『……ん、んんーー』
「…!?」
 全くの不意打ちで聞こえてきたのは明らかに気が抜けた様な面影の喘ぎ声。
 それを耳にした瞬間、びたっと面白い程に勢い良く男の歩みが止まり、ついでに身体も固まった。
「!?!?!?」
 千年を生きる三日月宗近という刀…その付喪神である彼は普段からどんな大事に遭遇しても、常に泰然としていておよそ驚きを表す事など無かったのだが、今の彼は正にその驚きの渦中にあるのだと表情からも見て取れた。
 幸いというべきか、そこに居たのは彼だけだったのでその様を他人に見られる事は無かったのだが…
(気のせい……か?)
 聞こえてきたのは面影の……やけに悩ましい、艶めかしい声………まさか……そんな……
 そんな筈がないのは心では分かっていた……そう信じたい部分もあった……のだが……
『ん…あぁ……気持ちいい……燭台切…上手だな』
「!!!!!」
 うっとりとした口調での燭台切への言葉が続き、更に三日月の顔色が真っ白になる。
 やはりその若者の声音は普段の淡白で無機質なそれではなく、まるで……閨の中での睦言にも似た恍惚に満ちたそれで………
「お……もかげ!?」
 焦りとも怒りともとれない感情が一気に心の中に拡がり、その行動の目的すら心得ぬままに三日月は動いてしまっていた。
 慌てて襖に手を掛け、しゅっと勢い良くそれを開いた先に見えたのは………
「あれ?」
「あ……三日月!?」
「どうした? 急用か?」
 呑気に面影の両肩に手を掛けて程よく力を込めていたのだろう燭台切、自分の気の抜けた姿を三日月に見られてしまって狼狽している面影、そして仕上がっていた書類を律儀に確認していた長谷部だった。
「…………」
 よく考えたらこんな真昼間、人の出入りが普段からも多い本丸の一室でいかがわしい真似など出来る筈もないのだ。
 そんな簡単な事も考えられなかったのか……と、今更自分の迂闊さにがっくりと項垂れた三日月だったが、当然そんな心中を彼らに吐露する訳にもいかず……
「う……む………その、な」
 右手で口元を隠しながら、三日月はちらりと面影の方を見遣りながら答えた。
「面影の……その、いつもと違う珍しい声が聞こえてきたので何事かあったのかと、な…」
「あ、う………」
 自身の声について言及され、面影が顔を俯けたが、影が差しても耳朶の裏まで赤くなっていたので羞恥を感じているのは明らかだ。
(き……気の抜けた声、聞かれた………!)
 三日月が懸念していた事はそういう単純且つ純粋な意味ではないのだが、無論、ここにいる誰もがそれを見抜く事はなかった。
 うわあああ!と心の中で悲鳴を上げながら、表面上では平静を装う事に必死になっている面影は、何の考えもなくだらしのない声を漏らした事実を悔いた。
(よ、よりによって、三日月にさっきの声を聞かれたなんて……絶対に呆れられた……)
 この天下五剣の中でも最も美しいと評されている付喪神は、本丸に来て日が浅い、新参者の自分にやたらと構いたがっていた。
 三日月が本丸を訪れたばかりの自分の後見人になる事を決定し、それ以降、何かにつけて世話を焼いてくれているのは、別に自分の思い込みではない、周りの刀剣男士達からも同様の感想をよく聞いているからだ。
 無論、自分もそこまで鈍感ではないので相手から気にかけられているという自覚はあったが、本丸に来たばかりの頃は単に警戒されているのだからと本気で考えていた。
 無理からぬことだと思う。
 主が不在の本丸に、予想だにしなかった遡行軍の強襲、見えない政府の思惑のままに出陣を決めたら、今度は初めて見る刀剣男士からの助力要請……これで何かあると疑わない方がおかしい。
 当初からこんのすけの紹介があったので真っ向から疑われる事こそなかったものの、これまで刀帳に記載がなかった刀剣男士の存在はやはり異質に見えるだろうと、自身もそう思っていた。
 しかしそんなこちらの心中とは裏腹に、三日月宗近は全くと言って良い程に警戒心の欠片もなく声を掛け、少しずつ少しずつ心の中に踏み込んできたのだ。
 敵ではない、頼りになる味方だという事は、三日月がその時に主に動いていた他部隊の露払いに出陣した姿を見て直ぐに理解できた。
 震える程に恐ろしく、美しい神の姿がそこにあった。
 この男神の前では下手な小細工など通じる訳はない…無論、自分にはそういうつもりは全く無かったので咎められる謂れは無いのだが、それでも身が竦む程の威圧感……
 しかし敵の全てを瞬く間に屠った後、振り返った彼の瞳は余りにも優しくて、慈愛に満ちていて、これが数瞬前の彼だとは信じられない程だった。
 聞くに、彼は主である審神者が在籍していた時から筆頭近侍として全幅の信頼を寄せられていたという話だが、その事だけでもその審神者が愚鈍ではなかったという事が分かる。
『面影よ、俺を頼れ……此処の全ての刀剣男士を信じろとは言わぬ、唯、俺だけはお前を裏切らぬ者として心に留めておけ』
 凛とした声が天啓の様に耳に届けられた時、不覚にも手を伸ばして相手に縋りそうになってしまった。
 ずっと一振だけで……誰にも縋れる事もなく、己の半身を探し求めて戦場を流離っていたこの心は、思っていたより疲弊してしまっていたらしい。
 それでも縋る手を抑えたのは、刀剣男士としての矜持が確かに心の深奥に在ったからだろう。
『私は……大丈夫だ……今の私に必要なのは、お前を信じる事より、信じてもらえる事だと思う……今は……そう在りたい』
 その時、三日月は何と返しただろう…?
 もう随分前のことの様に思えて忘れて……いや……違う、覚えている……
 こう、優しく肩に手を触れてきて………
『そうか……お前のその真っ直ぐな性根は心地良いが、もう少し肩の力を抜くがいい。せめて、俺がお前の隣に居る時くらいはな……』
 刀剣男士たるもの、過剰に他の男士に身命を委ねてはならない………そう、だった筈だ。
 それでもあの時から、自分の心の何処かで彼を拠り所にしたい、導にしたいという気持ちが僅かに芽生えた様な気がする。
 彼の者が揺るぎない大樹であれば、己はようやく地表に姿を覗かせたばかりの若芽だろう。
 それでもいつか、いつの日か、彼に一目置かれて肩を並べる様に成長出来ればと…思っていたのに……
(……失態を晒した…)
 日中から脱力も露わな声を出す様な、怠惰な男であると思われてしまったのではないか……
 頭のてっぺんから足のつま先までどっぷりと自己嫌悪の沼に嵌ってしまった面影だったがしかし、彼の様子には誰も気づかぬままに話は勝手に進んで行く。
「ああ、今は事務仕事の休憩中でね。慣れない作業で疲れただろうと思って、僕が面影さんの肩を揉んでいたんだよ」
「何と、そうであったか」
 ほのぼの~というのどかな雰囲気の中で燭台切が語る内容に、色々な意味で安堵した三日月が頷く。
 三人の様子を見てもいかがわしい行為などは(勿論)微塵も無かったという事で、面影の羞恥とは裏腹に三日月は相手に対する評価など下げるつもりもなく、優しく笑っていた。
 その笑顔のままに、三日月は今度はその面影本人に向き直り控え目に物申す。
「本丸の業務を理解させる為にと事務にも関わらせる事は主から聞いて承知しているが……先程の声の様子、かなり疲れているのではないか?」
「そっ…そんな事はない! は、長谷部の業務の成果と比べたら私が出来た事など…童の手習い程度に過ぎない」
 きっと下がってしまっただろう(と思い込んでいる)自身の評価を回復したいが、嘘をつく訳にもいかず、面影は首を横に振りながら素直な感想を口にしたが、それはすぐに長谷部によって否定された。
「謙遜をするな面影。お前が勤勉なのは皆が分かっているし、主もお前の事は評価していた。今日も、内番が終わった後でわざわざ俺の手伝いを申し出てくれたのだから、感謝している」
 長谷部はその経歴故か自身の主からの信頼を過度に希求しがちな傾向にあるが、偏重や偏向によるそれは決して望まなず、あくまで公平で公正な評価のみを良しとしている、根は実直な男士だ。
 そういう己にも他者にも厳しい性格だが、それ故、相手が相応の働きをしたらそれを素直に認める気概も持ち合わせている。
 刀剣男士となってそれなりに付き合いが長い三日月も当然そういう長谷部の性質は理解しているので、面影の働きは確かに認めるに値すると判断したのだろう。
「そうか……俺達は良い仲間を得たな」
 満足そうに微笑む三日月の反応を受けて、燭台切と長谷部もうんうんと頷く。
 それを受けてようやく、失望された訳ではないのかと安堵した面影だったが………
「よしよし、では日頃の感謝の意を示して、俺もお前の労を労う為に肩を揉んでやろう」
「は!?」
 その時ばかりは、普段寡黙な面影には珍しい頓狂な声が出てしまった。
 揉む!? 三日月が!? 何を!?
 音としてはしっかりと聞いていたのに、その内容が理解出来ない…!!
 あわあわと内心狼狽しまくっている面影を他所に三日月はすたすたと彼の方へと歩を進めていき、その様子を眺めていた燭台切達は苦笑こそすれ止める様子はない。
 この三日月宗近は戦場に於いてはその働きぶりは鬼神の如し…だが、普段の本丸に於いては外見こそ美々しい若者だが中身は見事なご隠居気質。
 千年を生きていただけあってその知識や知恵は本丸の生き字引として非常に心強いのだが、たまに…しばしば…時々、表に出て来るテンポのずれが皆の調子を狂わせる事も多々あった。
 しかしそのずれはあくまで平和な時間のみに顕在化するものなので、逆に言えばそれが出ているという事は、差し当たっての迫る危機はないのだろう。
 そういう形でも彼はこの本丸の余計な緊張感を和らげる存在であり、今の彼の呑気な行動は仕方ないなと苦笑はするが、止めるまでには至らないご隠居の『戯れ』なのだ。
「え、え……いや、あの…べ、別に三日月にまで…っ! あのっ、もう十分に解れたし…!!」
「まぁまぁ遠慮するな。俺もたまに主の肩を揉んでやった事もあるし、それなりに上手いつもりだぞ?」
 ようやく三日月の言葉が言うだけの冗談ではなく本気でやろうとしているという事態に気付き、一層あわわわわ!と狼狽も露わに身を仰け反らせる…が、着席している状態だったのでその場を退席する事も叶わず、そのまま三日月の接近を許してしまった。
 そんな彼に代わって別の人物が二人の間に割って入って茶々を入れてきた。
「ちょっと待て、三日月、主の肩を叩いたとはどういう事だ? お前いつの間にそんな……」
 言わずもがな、主大好きな長谷部である。
 彼は審神者の肩叩きまでした事はなかったらしく、三日月に食い気味に迫ってきたが、彼の面影に向かう足は止まる事はなかった。
 しかし長谷部の言葉はしっかりと届いていたので、それを無視する事は無くしれっと答えを返す。
「うむ、主も日々執務に追われているのでな、その合間に声を掛けたら殊の外喜んで頂けたのだ。責任感が強く、我々にもあまり甘える事は出来ないと思われていたのだろう。お前も主の様子を見て声を掛けてみてはどうだ?」
「む……」
 確かに自分は主の事を尊敬しているが、その所為で遠慮している部分もあったのかもしれない……
 そんな事を黙々と思案して静かになった長谷部に発破をかける様に三日月が顎に手をやり上を見ながら呟いた。
「そう言えば、午前の政府筋の者達の視察は随分と長かった。相対した主もさぞやお疲れだろう……今なら肩の凝りを解すこと、大歓迎されるかもしれぬなぁ」
「失礼する」
 さっさと部屋を出て行く長谷部の後姿を見送りながら、苦笑を深めた燭台切が三日月に言った。
「長谷部くんが何を考えているのか、一目瞭然だね」
「なに、分かりやすい事は良い事だ。下手に頭を悩ませずに済む」
「確かに」
「さて……?」
 軽い会話を打ち切って、三日月は改めて面影の方へと向き直った。
 長谷部に話の腰を折られかけたが、三日月にとって今一番重要なのは面影の肩叩きを実践する事であり、それを放棄するなどあり得ないのだ。
「仕方ないね、面影さん。覚悟を決めて三日月さんからも好意を受けた方がいいよ。こう見えて、決めた事については呆れる程に頑固なところもあるから」
 燭台切の言葉に面影は少しだけ沈黙し、おずおずと問いかける。
「………つまり、ここでの『覚悟を決める』と言うのは『諦める』と同義という事で…?」
「まぁ今に限ってはそうだねぇ」
 察しが早いね、とばかりに笑う燭台切の脇を抜けて、三日月は確実に面影との距離を詰めていく。
「さてさて?」
「…………」
 燭台切からの助け舟が期待出来ないと察してしまった今、自分の立場をどう例えるべきか………蛇に睨まれた蛙……?
(まぁ……相手は天下五剣の一振り……その美しさは彼らの頂点に立つ程の存在だとも呼ばれているのだから、無意識の中で格の違いに圧されてしまっている可能性は否めない、か……)
 半ば現実逃避の様に遠い目をしながら、面影は三日月が自身の背後に回る事を許すしかなかった。
 本当に、いつか……いつの日か、こんなに気を張る事なく彼の隣に立てる様になるのだろうか……
 その為に自分が出来る事は………彼の強さに近づくことなのだろうか……
 不意に、昔の三日月の言葉が心の中で蘇った。
『俺を信じろ』
 信じて…いると思う。
 少なくとも、出会った頃から今までの軌跡の中で、自分達の絆は深まっていると思う。
 それなのに、何故自分はまだこの男の前でこんなに身を竦ませなければならないのだろう、この僅かに増す鼓動の理由は……?
 疑念でないのなら……畏怖、か?
 いや、そんなものとも違う気がする……

 さわり……

「っ……!」
 思案に逃げていた面影を、右肩に優しく触れてきた感触が現実に引き戻す。
「ふむ? 燭台切に解されていた割にはまだ固い様だが…」

 もみもみもみ………

「~~~~!!」
 細く、それでいてしっかりとした指先が手始めに柔らかく優しく揉み込んでくる感触を布越しに感じて、勝手に頬が熱くなっていく。
 相手が揉み易い様に、というのは表向き、紅潮している顔を隠す為に面影は顔を伏せて項を晒す姿を取る。
「……」
 僅かに三日月が目を細めた様な気がしたが、他の誰にも気づかれる事無く、彼はそのままの流れで改まった仕草で両手を面影の双肩へと乗せた。
「よしよし、今日はじじいが労ってやるぞ、面影はいつも任務を頑張っているからな。ほんの礼だ」
「れ、礼なんて……私は当然の事をしたまでで………」
「まぁまぁ、ほれ、始めるぞ?」
 あくまでも謙遜の姿勢を崩さない若者を宥めつつ、三日月が笑いながら手指に力を込めて本格的に彼の肩を揉み始めた。

 もみもみもみ………
「………」
「………」

 一分後…
 もみもみもみ………
「………」
「………」

 三分後…
 もみもみもみ………
「………」
「………」

 五分後………
 もみもみもみ………
「………」
「………」

 先に沈黙を破ったのは三日月だった。
「面妖だな…」
 おや?と困った様に首を傾げながらそう独り言ちながらも、その手を止める気配はない。
「……揉んでも揉んでも、解れないのだが………」
 そんな二人を対面の位置から観察していた燭台切が、遂に面影に助け舟を出した。
「うん、そろそろ止めて上げて三日月さん。ちょっと…面影さんの口から魂抜け出しそうになってるから…」
「うん?」
 三日月に服越しとは言え長く触れられ、優しく癒して貰えているのは喜ばしい事の筈なのに、面影にとってはその心遣いはあまりに重過ぎたものだったらしい。
 端正な顔はそのままだったがその肌は耳朶に至るまでまで真っ赤に染まり、燭台切が言う様に口元から魂を吐く寸前の様な虚無の表情を称えていた。
 何というか……少なくともどう見てもマッサージを受けている者の浮かべるものではない。
 身体の方も、解して貰っているのに対し、まるでそれに拮抗する様に今もがちがちに固くなっているのが丸わかりだ。
「………俺の技術が伴っていなかったか…?」
 眼帯の美丈夫の忠告に手を止めた三日月は、そのまま右の人差し指を口元に持っていきながら首を傾げて眉を寄せる。
 どうやらこの好々爺は本気で力が及ばなかった事を気に病んでしまっているらしく、珍しくその心情を隠そうとしていなかった。
 それがポーズなのか、それとも隠し様がない程にショックだったのかは不明である。
「あ~~~……いや、色々と違うと思うけど……」
 普段は人に対するもてなしの心に溢れている心優しい燭台切であるが故に、その説明には少々窮している様子だった。
 どう言えば良いものだろうか………面影のあの反応は忌避によるそれではない、寧ろ………
「三日月さんはこの本丸の刀剣男士達の要だし、僕達より遥かに神格も高い付喪神だからなぁ………新参者の面影さんにとっては頼り甲斐がありながらも畏れ多くて近寄れない感じなんだよ、きっと」
 結局、そういう無難な物言いになってしまったが、外れてはいないだろう…多分。
「………俺は長く生きているだけのただのじじいだぞ?」
 面影から一線引かれているかもしれないという事が余程堪えているのか、今は大袈裟によよよと嘆く仕草までしている。
 何というか……まるで年寄りいじめをしてしまっている様で酷く居たたまれない。
 そんな罪悪感のお陰か放心状態だった面影も早々に立ち直り、三日月に申し訳なさげに弁明を始めた。
「その…! すまない、私が勝手に緊張しているだけなのだ、三日月が悪い訳ではない……!」
 三日月によって散々情緒を揺さぶられた上に、今度はその三日月を慰めなければならないという或る意味罰ゲームとも言えるだろう行為を、疑う事もなくやろうとしている純粋な若者を見て、燭台切ははっきりと悟った。
(面影さん…………ずっと感じていたけど、間違いなく苦労性だよねぇ…)
 三日月が絡むと更にその苦労度が跳ね上がっている気もするのだが、見ている限りこの捉えどころのないご老体はどうやら隣の新参者をいたく気に入っているらしく、何かと構おうとしている事も知っている。
 厄介なのは、三日月と面影、どちらともが互いに嫌い合っている訳ではないというところだ。
 嫌い合っている場合はその原因を互いに容認し合う事でより絆を強める切っ掛けになる事もあるのだが、その切っ掛けが見つからない場合、寧ろわだかまりが解けるのにより時間が掛かってしまう場合もある。
(とは言え、面影さんも彼なりに努力してはいるみたいだし………ここは静観するしかないか)
 いつかこのぎこちなさも消える時が来るだろう、幸いと言うべきか、自分達刀剣男士は折れない限りは人間より生きる時間は長い………戦場で折れない限りは。
 そんな事を考えている男の向こうでは、今も面影が三日月に声を掛けている。
「本当にすまない……力を抜きたいのに上手くいかなくて…三日月、お前もずっと俺の肩に触れて疲れただろう?」
 その疲れをどう癒してやれば良いものか、と悩んでいたところで、ふと、面影と燭台切の視線が交わった。
「すまないんだが、燭台切……三日月にも、お茶を淹れてくれないだろうか? 私は…お前程に上手くは淹れられないから……」
 この流れの中で気付くのが遅れたが、自分が最初に此処にお茶や菓子を運んできた時には三日月はいなかったので、彼の分のは準備していなかったのだった。
「あ、そうだね。折角なら三日月さんも美味しいお茶と羊羹で一服していきなよ。今、淹れてくるから」
「おお、すまんな」
 燭台切が部屋を退出していったところで、面影は再び三日月に向き直った。
「………その」
 残念ながら効果はほぼ無かったが、三日月が、優しいこの付喪神が長い時間自分を労わってくれたのは事実なのだ。
 詫びというか、自分もそれに見合うお返しをしたいと思った。
「三日月も……肩が凝ってはいないか? 良かったら…お返しに私が揉んでやろうか?」
「!」
 面影の申し出に思わず目を軽く見開いて、三日月は大輪の花が綻ぶように笑った。
 その艶やかさに目を灼かれそうになり、面影は咄嗟に視線を逸らした。
(ああ……本当に綺麗だ)
 見ていたいのに、それすらも憚られそうで直視出来ない……
 密かにそう思っている面影の向こうで、三日月はそんな心中など知らぬ様子でくるりと背を向け歩を進めた。
 面影の申し出を断る意図ではなく、その部屋の庭に面する縁側へと移動する為だ。
 平屋造りのこの本丸の殆どの部屋は、庭なり外苑なり、何処か外へと面している。
 開放感を演出する意味合いもあるが、その本来の目的はこの場が戦場に変じた際、皆が各々の部屋を無尽に駆け回りあらゆる事態に対応する為だ。
 敵の侵入を容易にするという欠点にも見えるが、審神者の結界を破って侵入を果たされた時点でその論理は破綻している。
 無論、外界に面していない部屋も幾つかはある………本当に、誰にも聞かせたくない極々内密な軍議が行われる部屋と………敵をそこへおびき寄せ、滅する為の部屋だ。
 しかし今この二人が居る部屋はそんな物騒さなど微塵も感じさせない心地よい風と陽光が差し込む空間だった。
 縁側に足を進めると、その開かれた世界がより心を軽くする。
「では、頼もうかな」
 鷹揚にそう言いながら、三日月は縁側の外に身を向け腰を下ろす。
 此処には主という目上の者はいないので、気楽に胡坐の形を取ると、すぅと振り向き面影を促す。
「あ、ああ…」
 促された面影は素直に相手の背へと近づき、すぅと両手をそちらへと伸ばした。
「…………」
 三日月の冴えた瞳が相手の白い指先を捉える。
 不思議な眩しさだ、と三日月は密かに思った。
 眩い程の肌の白さ……眩いのに、危うい程の儚ささえ感じさせる肌の色。
 刀帳にも記載されていない謎の多い刀剣男士は、あの日、凛とした声で『面影』と名乗った。
 成程、彼の肌の滑らかさは、その刀身に顔がはっきりと映るという逸話に反映されているのかもしれない。
(いかんな………目を奪われる…)
 永き年月の中、美しいものも醜いものも数多見て来た。
 それなのに、初めてこの者を本丸で見た時、目を奪われるという衝撃にも似た感覚を覚えた。
 眩く儚い……美しい者
 見た目だけの話ならここまで目を惹かれる事はなかっただろう。
 しかしその眩さはまるで、身の奥から……そう、まるで魂の奥から溢れるようなそれだった。
 それを見る事も、感じる事も心地好くて、ついこちらへと引き寄せてしまう。
 最近は、彼が他の何者かと語らっているのを見ると心の奥がざわめくのを抑えられない……悟られない様に隠してはいるが。
「力が強過ぎる様なら言ってほしい……加減はするが」
「うん、任せるぞ」
 そうして生地越しに触れて来る若者の指先に、自然と口元が綻んでしまう。
 理由はどうあれ、こうして相手が自分に寄り添ってくれるのが堪らなく嬉しい。
 面影の指が遠慮がちに、しかししっかりと肩を揉み始めると、瞬く間に身体の余計な力が抜けていくのを感じた。
(…これは……予想以上だな…)
 思っていたより遥かに心地好くて、溜息が零れてしまいそうになる……身体中の全ての筋が脱力してしまう………
「………はは…ーーー」
「…え?」
「…………すぅ………すぅ…………」
「!……ちょ…っ」




 そしてお茶を淹れ、新しい茶菓子を持参した燭台切が見たものは………
「……え、ええと?」
「………助けてくれ」
 くたりと完全に脱力した三日月の身体を前面で受け止め、情けない表情でこちらへ懇願する面影の姿だった。
 何がどうなっているのかよく分からず、取り敢えずはお茶などを載せた盆を座卓に置いて静かに近寄ると、大体の状況を察する事が出来た。
「これはまた………見事な寝落ちっぷりだね」
 ぐっすりと眠りに落ちた三日月が、良い寝床を見つけたとばかりに面影の胸に身を委ねている。
 おそらくは、面影が肩を揉んでくれる心地良さに睡魔が便乗し、彼を夢の世界に誘ってしまったのだろう。
 夢…という言葉に、一瞬、この若者と夢の因果を思い出したが、燭台切はすぐにその思考を振り払う。
 あれはもう過去だ。
 今はこの若者は、自分達と同じ現に戻ってきているのだ。
 一度面影があの夢の檻に自らを封じた時…その贄の代わりに自分達が元の本丸に帰還した後……三日月の憔悴ぶりはかなり酷かったのではないかと思う。
 推測の域を出ないのは、三日月が恐ろしい程にその心を隠すのが上手い男士だったからだ。
 それでも、元の生活に戻ってから、ふとした拍子に三日月の視線にゆらぎが見える様になった。
 何かに視点を定めるほんの数瞬前に、他の何かを探す様に視線を動かすのだ。
 しかし何を探しているのかと声を掛けようとした時にはもう、三日月はそんな事などなかったように振舞っていた。
 振舞ってはいたが、夢の檻からの帰還後、彼はあんなに好きだった午睡もしなくなり、悲し気な顔で物思いに耽る様子が目立つようになった。
 理由はすぐに察せた。
 若者との別離を悲しんでいたのは三日月だけではない、本丸の全員が同じ様に胸に刻んでいたのだ。
 しかし、いつもならすぐに前を向き、歩を進める強さを何より誰より持っている筈の三日月が、あの時ばかりは心の欠片を何処かに失くしてしまったかの様な微かな違和感を抱えたままだった。
 その違和感が払拭されたのは、面影が再びこの本丸に帰還したあの日。
 欠片が戻った様に、三日月はその時ようやく元の笑顔を浮かべていた様に見えた。
 それが、彼の不調の原因の答え合わせだったという様に。
(確かに………自分以外誰も居ない世界に一人囚われるというのは、折れるより辛いことかもしれない………そんな境遇に面影さんを置いてきてしまったんだ。三日月さんの傷心は…当然だったかもね)
 傷心は面影の帰還後、すぐに癒された訳でもなかった。
 彼が戻って来ても三日月は暫く午睡を取る事はなく、常に面影の姿を目に留められる場所に居る様になっていた。
 また何処か夢の世界に連れ去られるのではないかという懸念が拭えなかったのだろう。
 今こうやって面影に身を委ねて寝入っているという事は、触れる事で面影の存在が此処にあるのだと認識しているから眠れているという事だ。
 安堵しているのだ、この若者が此処にいるのだと。
(……そう考えると………邪魔は出来ないよねぇ)
 三日月にとって、そんな優しく大事な時間を妨げる程無粋にはなれない。
 燭台切がそういう事を考えているとはまるで知らない面影は、今も相手に助けを求める様に見上げてきている。
 きっと燭台切が上手く三日月を起こしてくれる事を期待しているのだろう。
 そもそも起きてほしければ自分で起こせば良いのだろうが、どうやら面影の頭の中にその選択肢は無いらしい。
「………近侍って結構疲れるんだよ」
 面影の目の訴えに応える代わりに、ゆっくりとお茶と羊羹を載せた小皿を座卓に置きながら、眼帯の男は小さな声で言った。
「主と僕達の間に立って色んな任務の仲介を果たしたり、指示を出したり……政府側の無茶な要望を躱すのに、刀剣男士の立場を利用して執成す事もある。流石に長く生きている分、三日月さんは人の真似事はとても上手いと思う。それでも、僕達の本懐は敵を斬る事だ……僕達は、刀、なんだからね。慣れない事をしたら疲れもする」
「………」
「人の身を象っていても戦闘本能は隠しようがないけど………それでも気を緩めたくなる時はあるんだと思う。三日月さんはこれまでずっと午睡を誰かの傍で取る事は無かったんだけど、どうやら君は例外みたいだ。余程、彼に気を許されているんだね」
「え………」
 思わず視線を三日月の方へと戻すと、変わらず彼は安らかな寝息をたてている。
 どう見ても狸寝入りには見えない……揶揄っている訳ではなく本当に眠っている。

『もう少し肩の力を抜くがいい。せめて、俺がお前の隣に居る時くらいはな……』

 いつかの三日月の声が去来する。
 今のこの状況、立場がまるで逆だが、三日月の態度が彼の言葉を裏付けている様だ。
(私がお前の隣に居る時………今この時……信じてもらえているのか…? 身を委ねる程に……?)
 とくんと一際強く脈が打たれた様に感じ、はっと反射的に顔を上げる。
 また燭台切と視線を合わせたが、相手は全てを察しているという様に首をゆっくりと横に振った。
「……………」
 やはり、三日月を起こすつもりはないらしい。
「三日月さんが傍にいるなら安心だよね」
「いや、そういう話では…」
「まぁ、ついでに君もゆっくり休むといいよ。此処の書類も一段落したって言ってたし、邪魔はしないように皆に言っておくから」
「えええ……」
 困惑する面影を他所に、燭台切はさっさとお茶と菓子を置いたまま退出していく。
(えええ~~~~~!?)
 時間遡行軍との戦いの時には、かなりの無茶な場面にあっても動揺する事無く、仲間達の期待に応え続けていた若者だったが、今の状況はどんな戦場よりも困惑に満ちたものだった。
「ちょっと………」
 周りを見回し、安らかに寝入る美神の顔を見下ろし、その動作を幾度か繰り返したところで、面影ははぁ、と溜息をついて少しだけ居住まいを正した。
 その仕草の中にも、三日月を起こさないようにという気遣いが見られていたが、本人にその自覚はあったのか……
 自分の姿勢も少しは楽になり、面影は三日月の上体がずり落ちないようにそっとその両腕を支える様に抱いた。
 滑らかな絹の感触を通じて、しっかりとした腕の形が分かる。
 一見華奢な様に見えた蒼の月神だが、こうして触れると確かに刀を振るう力を持つ男士の身体だった。
 それでも、その腕も今は弛緩し、だらりと力なく手甲を畳上に置いている。
(………人の気も知らないで…)
 ここまで脱力している相手の様子を見ていると、どうして自分が気を揉まなければならないのか、と行き場のないもやもやが胸を満たす。
 三日月が悪い訳ではない事は分かっている…が、こんな彼の姿を目にすると、自分の狭量さを見せつけられている様にも思えるのだ。
 自分も、出来る事なら彼の様に、傍にいても堂々と振舞いたい……のに……
(……けど)
 ここまで心を許されているのだと思うと、面映ゆい一方で、もやもやの中、喜びの感情がじわりと胸の奥から滲む。
 様々な感情がないまぜになって、訳が分からなくなる。
 何なんだろう、この胸のざわめき……感情……これは何と名付けたら良いものなんだろう。
 はぁ……と吐息を漏らして青空を見上げる。
「………」
 澄んだ青天を見上げて綺麗だと感じ、渡る風を肌に受けていると、もうどうでもいいか、という投げやりな気分になってくる。
 どれだけ今の自分が悩んだところで、今の三日月は寝息を立てているだけなのだ。
(今は……このままで良い…のかな)
 彼はこうして穏やかに眠り、自分はこの男の美しい顔を近くに眺め、その安寧を見守る事が出来る。
 以前だったら、こうして間近に寄る事も憚られていたかもしれないので、少しは歩み寄れているという事なのかもしれない…あくまで自己評価に過ぎないが。
 いつか、何気なく、何の迷いもなく、彼の隣に立つ事が出来たら………
(…………遠い夢、か)
 どうかそれは、かつて己を苛んでいた悪夢にはならないでほしいと願いながら、面影はそれからも三日月の身体を優しく受け止めたまま、静かで穏やかな時を過ごしていた………