確執を解く唇
三日月の目を見られなくなった。
(ああ、また今日も…一度も……)
面影は、今日何度目になるかも分からない溜息を一つついて俯いた。
場所は自室。
時刻は既に夕刻を過ぎた頃…既に今日の予定は全てこなしている。
もう部屋から出る用事もなく、手持ち無沙汰に面影は部屋の中を無意味に動き回った。
「……どうしたら」
あの日から、自分はどうにかなってしまった様だ。
三日月に自分が子供でいなければならない理由を問い掛けて…不意打ちの形で受けた口づけ。
流石にその意味を解さぬほどに子供ではないのだが…お陰であの日からこちらの情緒が千々に乱れてしまっている。
「………三日月」
呟くそれだけで、顔が赤くなるのを自覚する。
あの時、彼はどの様に…自分の額に、頬に顔を寄せ、唇を触れさせたのか……
自分達のあの時の姿を客観的に想像するだけで、今度は顔から火が出そうだ。
(……子供がこんなになる筈がないだろう)
子供なら、あんな事をされたとしてもこんなに動揺する筈もないのに…
(……嫌い、ではない。それは間違いない…けど……)
この感情に……名前が付けられない……
(区切りをつけないといけないのに……肝心の三日月と話しどころか目も合わせられないなんて、どうしたら……)
あれから悶々とした日々を過ごしているが、仕方ないとも思う。
相手を目にしたら、どうしても思い出されてしまうのだから……あの瞬間を。
これが相手が何も語らぬモノだったら問題はなかった。
しかし、三日月宗近は自身と同じ自我を持つ刀剣男士。
あの日から接触困難になってしまってからも、向こうはいつもと変わらずにこにこと朗らかな笑みを浮かべて周りの仲間たちと交流を行っており、その様子は何ら変わりない。
それでも、流石に自分との関係性の変化については気付いているだろう。
あの日以来、自分とは何も言葉を交わさず、視線を合わせる事もなくなっていると。
(……私…のせい…になるんだろうな……極めて不本意だが…)
自己嫌悪に浸りながら首を横に振る。
別に…あんな事をされたから嫌いになった訳ではない。
そういう負の感情ではないが……何故か、心がざわつく……
(…嫌われて…しまっただろうか…)
こんな態度を貫いてしまっている自分に、もしかしたら愛想を尽かされてしまっているだろうか。
それも仕方がないかもしれない。
好意を示してくれていた相手に、つれない態度を取ってしまっているのは他ならぬ自分自身なのだから。
しかし、嫌われたならそれはそれで……
(謝罪しなければ…ならないな)
互いの感情がどうであれ、これからも自分達はこの本丸の中で過ごしていかなければならないのだ。
最低限の交流は避けられないだろうし、それを円滑に行う為に、嫌悪されたままというのは純粋に不利益が大きすぎる。
(…兎に角、間が空けば空く程にやりづらくなる。明日こそは、何とか話す機会を持たなければ…)
そんな事を考え、次の日こそはと接触を持とうとした面影だったのだが……
「……遠征?」
「はい、山姥切さんが昨日の手合わせで足首を痛めたらしくて、大事を取って自分が代わろうと仰って代理で参加されましたよ?」
「………そう、か」
鯰尾から事の顛末を聞かされ、何処までも間が悪い自分に再び自己嫌悪に陥ってしまった……
(……遅いな)
夕刻になっても依然帰る気配のない三日月達の部隊を待ちながら、面影は正門辺りをうろうろと歩き回っていた。
予定だと、もう帰って来てもおかしくない時刻の筈だが…何か問題が生じたのだろうか…?
(…いや、まさかな…あの三日月がいるのだ、問題なく帰って来る筈……)
あれ程の強さを持つ男が、遠征如きで何事かある筈がない…
しかしそう思いながらも、本丸に戻る気持ちにもなれず、面影はひたすらに部隊の帰りを待ち続ける。
そして、徐々に辺りが暗くなってきた頃…遠くからこちらに向かって走って来る足音を聞き、面影はそちらへと視線を向けた。
「…日向?」
「あ、面影さん!?」
走って来ていたのは、三日月と同じ部隊として参加していた筈の日向だった。
何故か、一人だけの様だが…他の皆はどうしたのか……
「日向一人なのか? 他の仲間は?」
「遡行軍の奇襲が!」
「っ!!」
ざわっと背中を悪寒が走る。
脳裏に、血に濡れるあの男の姿が浮かび、手にしていた大太刀を強く握りしめる。
「何処でだ!?」
「ここから先、帰る際に襲われて…! 大した数じゃなかったので皆無事ですけど、ちょっと軽傷を負った人もいたから、手入れ部屋を準備する様に僕が伝令を…! 今、三日月さんが殿を務めて全員を戻すように動いてます」
「! 分かった、すぐに私も援護に向かう。日向はそのまま本丸へ!」
「はい!」
相手に指示しながら既に走り出し、面影は自身の刀の柄に手を掛けた。
(…三日月!)
他の者達の事は、正直頭にはなかった。
三日月だけ…彼の事ばかりを思い、ひたすらに先の道を全力で走る。
やがて、向こうから剣戟の音と血の匂いが流れてきて、面影も刀を抜いて現場へ急ぐと、そこにはまだ残党と戦う部隊の仲間がいた。
「皆、下がれ!」
叫びながら己の刀で周囲を一閃し、敵の残党の複数を粉々にすると、面影はその場に三日月がいない事を確認して大いに焦る。
「三日月は!?」
「最後の大太刀を倒して、遅れて来ている!」
誰かの叫びで後方へと視線を遣ると、確かに。
あの青い衣を所々血で染めてはいるが、どうやら無事らしい彼がゆっくりとこちらに歩いて来ていた。
周囲を警戒するが、今の自分の一撃と周りの協力で、遡行軍は撃退完了出来たらしい。
「皆は疲れているだろうから先に本丸へ、手入れ部屋の準備ももう出来ている筈だ。三日月は念の為に私が護衛して連れて行く」
体力、戦闘力共に説得力のある面影の一言で、仲間たちは頷き、三日月を任せたと言って本丸へと向かっていく。
(…取り敢えずは良かった…後は三日月を)
護衛しなければ…と向こうを見たところで、息が止まり、時さえも止まった気がした。
(…え?)
三日月の背後に見えるのは…あれは遡行軍では…?
最後の残党……まだ生き残っていたのか…!
「み…っ」
肝心のあの男は気付く様子もなく悠々とこちらに向かって歩いてきているが、視線は下の地面に向けられていて、こちらの存在には気付いていない様だ。
駄目だ! その男に手を出すな…!!
「三日月――――――っ!!」
疾走し、何とか自分が敵を討とうと走り寄った刹那…
「ああ、邪魔だ」
事も無げに言い放ち、三日月は自身の刀を抜いたかと思うと、その敵を一刀の下に切り伏せてしまっていた。
神速の速さ……面影ですらその動きは追えず、血飛沫を上げて砕かれてゆく敵を呆然と見守るしかない。
「………っ」
「…? 面影…?」
ようやくそこで面影の存在に気付いたらしい三日月は、実に不思議そうな表情で彼を見つめ…思い出したように血振りをして納刀し、改めて相手に向き直る。
「…何だ、わざわざ様子を見に来てくれたのか?」
悪意ではなくとも、数日、ずっと言葉も視線も交わせなかった自分に、相変わらず三日月は優しかった。
「……お前が殿を務めていると、日向から聞いて…」
「そうか…心配を掛けてしまったな。だが、まだこの程度の敵に後れを取る程耄碌はしておらんよ」
「……そうみたいだな。てっきり、後ろの敵に気付いていないのかと思ったが…」
「ああ、近づいてくれんと上手く斬れんからなぁ。こちらから歩くのは面倒で、ははは」
「…………」
年寄りと言うよりは、単なる横着者なのでは…と思ったが、そこは呑み込んでおく。
やれやれと思ったところで、面影は相手が自分をじっと見つめている様子に気が付いた。
「………お前と言葉を交わすのは久しぶりだ」
「あ…」
言われて初めて、面影はそこでようやく彼と会話出来ている事に気付いた。
これまでの躊躇いや悩みも、どうやら先の遡行軍達のお陰で吹き飛んでしまった様だ、それだけは感謝しても良い……相手はもう存在していないが。
「……三日月、お前に詫びたい」
そう言って、面影はゆっくりと一礼した。
「うん?」
「……ここ数日、お前に対して非礼な振る舞いをした事を謝りたい…すまなかった」
「ああ……」
やはり思い当たるところはあったのか、さして驚く様子もなく三日月は微かに微笑んで頷く。
「お前が謝ることは無い。あんな事をされたのだ、嫌われても当然の…」
「っ! 違う!」
相手の言葉を最後まで待たずに面影が声を上げて否定し……そこで、は、と己の口を手で塞ぐ。
つい思わず声を上げてしまった……否定しなければならないと…それだけは……
「面影?」
「嫌っては…いない……それだけは、違う…」
胸に握った拳を押し当て、苦し気に呻くように否定する若者の姿は、それでも儚く美しく見える。
苦悩している相手に向かって見惚れそうになるなど…と思いながらも、三日月は微かに期待するような瞳で相手を見つめた。
「…嫌っていないのか…?」
「………」
何故かまた照れ臭さが湧き上がってきて、そして同時に相手の今も余裕が伺える態度に、ほんの少しだけ反抗心が湧いた。
どうして自分だけがこんなに苦しい……?
あんな事をされて自分はこんなに苦悩していたのに、この男は相変わらず余裕綽々としている。
もし自分が相手と同じ事をしたら、少しは狼狽えてくれるのだろうか……?
「……非礼は詫びる…が、半分は、お前のせいだ、三日月」
「うん?」
八つ当たりに近い事だとは分かっている。
しかし、もし自分が行動したら向こうはどういう顔をするだろう…それが酷く気になって…どうしても見たくなった。
「…試させてくれ」
「ん? 何を…」
『だ』と言葉を継ぐ前に、三日月が声を失う。
音もなく身体を寄せた面影が、自身の腕を捕え、額にその唇を落としていた。
あの夜……三日月が面影にした時と同じ様に……
「!?」
珍しい三日月の驚愕の表情を、面影は見る事は叶わなかった。
瞳を閉じたまま、唇を額から離し…すぅと顔を下へと下ろして…
ちゅ…っ
微かに立てたはずの音が、やけに大きく耳に響いた。
これもあの時と同じように、三日月の右頬に自らの唇を押し付ける。
(…よく平然とこんな事が出来たな、この男…!)
表面では落ち着いている風を装いながら、面影は既に一杯一杯だった。
仕掛けているのは自分なのに、相手の柔らかな頬の感触を唇を通じて感じるだけで、心の臓が破裂しそうだ。
微かに香ってくるのは、相手の衣に焚き染められた香…それと布に染み込んだ血の香りか……
(…酔いそうだ)
それもまた、刀剣男士である自分達らしいと思いながら…ゆっくりと唇を離す。
相手は今、どんな顔をしているのか…
ほんの少しの期待を込めてそっと様子を窺った面影は……僅かに落胆する。
「…………」
照れるでもなく、怒るでもなく……三日月は完全に無表情で、じっとこちらを見つめていた。
気恥ずかしがり、こちらの視線から目を逸らす素振りもない。
無反応…という言葉が一番合致しているかもしれない。
(これが、大人の余裕というものなのか………?)
責めたりされなかったのは幸いか……と考えつつ、す、と相手の腕から手を離す。
「………確かに、私が子供だった様だな……」
三日月と比べてあんなに取り乱すなど、と自嘲し、ふぅ、と息を吐き出して呟いた…次の瞬間
「っ!?」
ぐいと物凄い力で身体が傾ぎ…温かな何かに包まれる。
後頭部に手を添えられ、固定され、鼻腔を先程の香がくすぐった…ところで、ようやく面影は三日月の腕の中に抱き寄せられている自分を認識した。
「………!?」
今度は仕返しの仕返しか!?と思った若者の右耳に、甘やかな吐息が吹きかけられ、ぞくりと全身に戦慄が走った。
「……俺を煽るか…」
わざとだろうか…熱い吐息と共にこんな甘い声音で囁いて来るのは……
「…程々にしてくれ…じじいには刺激が強すぎる」
追い詰められた小動物が必死の抵抗を試みる様に、面影は狼狽えながらその言葉に反論した。
「な……顔色一つ変えずに受け止めておいて何を……!」
「ん…?」
面影の言葉に、三日月は徐に彼の左手首を掴み…ぐいと自らの胸の中央部にその掌を押し当てる。
「……!」
布越しでも分かるその鼓動……早鐘を打っていた…
その無表情からは考えられない程に速く……
その生の鼓動が余りにも生々しすぎて、思わず面影は彼の手を振りほどき、胸から離す。
「はは、分かったか? 俺とてこうなる…好いた者の前ではな」
「好い……」
「面影」
物凄い発言を聞いた相手が大混乱に陥っているのにも構わず、三日月は相手の額に再び唇を落とす。
しかし、今回はそれだけでは済まず、離れたら次は右頬、そして左頬、鼻尖と次々と顔の至る所に口づけを落としてゆく。
「み…かづき…っ」
止めてくれ……そう言いたい筈…なのに、言葉が継げない……
(…嘘だ……こんな……)
止める事を懇願するどころか、もう一人の自分が求めている……もっと、もっとと……
「…ああ、愛いな……お前は…」
心から愛しいという様に三日月が呟き……そっと唇で面影のそれを塞ぐ。
「っ!!」
初めての唇同士の口づけに、面影の頭は一瞬で沸騰した。
皺になるのも思い浮かばず、ぎゅうと力いっぱいに相手の腕を衣越しに握りしめ、ぶるりと肩が震えてしまう。
かつ…っ
固い音が二人の重なった唇の隙間から漏れたのは、互いの歯が軽くぶつかり合ったからだ。
「……ふ」
くすりと笑いながら、唇を僅かに離しつつ、三日月が囁く。
「確かに、こういうところはまだ子供か……」
「…! どういう意味…」
「し――っ…」
窘める様に面影の発言を封じ、再び三日月は唇を寄せる。
ちゅ………ちゅっ……
何度も何度もついばむように…上唇、下唇、その隙間の歯列を狙い、面影の意識を蕩けさせてゆく……
「……あ…っ」
漏れた自身の甘い喘ぎに、はっと面影が久し振りに瞳を開く…と、こちらを見下ろす月の麗人が優しく微笑んでいた。
「み…かづ……っ」
「俺も詫びねばならんな……もう、無理だ…」
子供だからとお前を諦める事は、もう出来そうにない……と言いながら、三日月がするんと相手の手を取り、指を絡ませた。
「だが責任は取る………お前の手は、俺が離さぬ」
この先もずっと………
「………っ!」
静かでも力強い宣言に、面影が頬を朱に染め、恥ずかし気に俯いたところで、遠くから自分達を呼ぶ声が聞こえてきた。
どうやら、本丸の方から何人か、自分達の事を心配して探しに来てくれたらしい。
「皆……」
「ははは、邪魔が入ったか…」
流石に彼らの前でこういう事は出来ないと、面影が相手から離れようとしたところで、ぐい、と繋げた手を引かれる。
「三日月…? 手を…」
「離さぬよ」
離してくれと言う前にきっぱりと否定され、困惑の表情を浮かべる若者に、三日月は勝ち誇るように笑った。
「…もう離すつもりはないから、お前が諦めてくれ」
「~~~!!」
譲歩する気が全くない相手に声を失い、面影は仕方なく彼と共に歩き出す。
「……私は…お前が思う程に子供じゃない」
「分かっている。子供があれ程に俺を惑わせるものか」
「…だが、先程もお前は私を子供だと…」
「追々、俺が教えてやるからそう心配するな」
「?………何の話かよく分からないが」
そんな事を語り合いながら……
久し振りに互いとの交友を果たした二人は、その距離を一気に縮め、本丸への道を共に歩いて行った………